人物

トゥパク・アマル2世

Túpac Amaru II
AD1738年3月19日 – AD1781年5月18日(享年43)
ペルー(インカの末裔)重要度 3

概要

インカ最後の皇帝の子孫を名乗り、植民地体制に対して蜂起した。処刑の様子が、以後の抵抗の記憶になる。

関わったできごと(1)

ラテンアメリカ諸国の独立1810年 · その50年前の先駆

本文

本名はホセ・ガブリエル・コンドルカンキ。1738年、ペルー南部、クスコの南東にあるティンタ地方の村で、先住民の首長(カシケ)の家に生まれた。スペインの植民地支配の下でも、先住民の村々にはカシケと呼ばれる世襲の首長がいて、税の取り立てや労働の割り当てを請け負い、植民地の役人と村人の間に立っていた。彼の家はその一つで、スペイン人の血も引くメスティソの家系だった。

ホセ・ガブリエル・コンドルカンキ
ホセ・ガブリエル・コンドルカンキWikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

コンドルカンキは、インカ帝国の滅亡の後、ビルカバンバの山中で抵抗を続け、1572年にスペイン人に処刑されたインカ最後の皇帝トゥパク・アマルの子孫を名乗っていた。少年時代、クスコのイエズス会の学校で、カシケの子弟としてスペイン語とラテン語の教育を受けている。成人して父の跡を継いでカシケになり、ラバ数百頭を使った運送業を営んで、クスコからポトシの銀山(ポトシ銀山の開発)にかけてのアンデスの道を行き来した。インカの血筋を正式に認めさせようと、リマの裁判所に訴えも起こしている。先住民の中では裕福で教養のある層に属していた。

その彼が見ていたのは、アンデスの先住民を押しつぶす二つの重荷だった。一つはミタと呼ばれる強制労働で、村ごとに一定の数の男たちがポトシの銀山などに送られ、過酷な労働で多くが命を落とした。もう一つはレパルト(強制販売)である。地方を治めるスペイン人の長官(コレヒドール)が、要らないラバや布や道具を先住民に高値で押しつけて買わせ、その代金を取り立てて私腹を肥やした。18世紀の後半、スペイン本国の改革で税の取り立てが厳しくなり、不満はさらに高まっていた。

メスティーソのカシケ、運送業者のホセ・ガブリエル・コンドルカンキ
メスティーソのカシケ、運送業者のホセ・ガブリエル・コンドルカンキWikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

1780年11月4日、コンドルカンキは、ティンタの長官アントニオ・デ・アリアガを、宴の帰り道で捕らえた。数日後、村の広場に人びとを集め、アリアガを絞首刑にした。国王の命令によるものだと宣言し、自らをトゥパク・アマルと名乗った。スペイン国王への忠誠を口にしながら、悪い役人と悪い制度を取り除くという形で始まった蜂起だった。

蜂起はたちまち広がった。11月18日、サンガララの村でクスコから送られた討伐隊を破ると、数万の人びとが加わったとされる。先住民だけでなく、当初はメスティソや、植民地生まれの白人であるクリオーリョの一部も同調した。妻のミカエラ・バスティダスは、作戦の立案と物資の調達を担う有能な指揮官で、夫にクスコを早く攻めるよう促す手紙が残っている。

トゥパク・アマル2世
トゥパク・アマル2世Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

しかし、蜂起軍がスペイン人の農園や家を襲い、多くの白人が殺されるにつれて、クリオーリョは離れていった。サンガララの戦いで、スペイン人が逃げ込んだ教会が焼けたこともあり、クスコの司教は彼を破門した。年末から翌年1月にかけてクスコを包囲したが、攻め落とせなかった。リマから増援が着くと形勢は逆転し、1781年4月、仲間の裏切りによって、家族とともに捕らえられた。

5月18日、クスコの中央広場で処刑が行われた。彼はまず、妻ミカエラ、長男イポリト、叔父ら家族と仲間が処刑されるのを見せられた。それから舌を切られ、手足を四頭の馬につながれて四方へ引かせる刑にかけられた。だが体は裂けず、最後は首を斬られた。遺体は切り分けられ、頭や手足は蜂起に加わった各地の町に送られて晒された。末の息子フェルナンドはまだ10歳前後の子どもで、刑場に立ち会わされ、のちにスペインへ送られてそこで生涯を終えた。

トゥパク・アマル2世の水彩画(作者不詳、1784-1806年頃)。2015年に公開された、現存最古とされるこの先住民反乱指導者の肖像
トゥパク・アマル2世の水彩画(作者不詳、1784-1806年頃)。2015年に公開された、現存最古とされるこの先住民反乱指導者の肖像Wikimedia Commons Anonymous Unknown author · Public domain

蜂起は彼の死で終わらなかった。南のアルト・ペルー(いまのボリビア)では、トゥパク・カタリと名乗る指導者がラパスを長く包囲し、甥のディエゴ・クリストバルらが戦いを続けた。一連の反乱と鎮圧で死んだ人の数は、10万人前後に上るともいわれる。

鎮圧の後、スペイン当局は、反乱の根になったものを断とうとした。カシケの多くはその地位を奪われ、インカの衣装を着ること、インカの皇帝の肖像を描くこと、ケチュア語の演劇などが禁じられた。インカの記憶そのものが危険とみなされたのである。一方で、悪名高いレパルトは廃止され、地方の行政も改められた。

その後、南アメリカでは、シモン・ボリバルらによってスペインからの独立が成し遂げられるが、それを率いたのは主にクリオーリョで、先住民の暮らしはすぐには変わらなかった。

それでもトゥパク・アマルの名は、抵抗の象徴として繰り返し呼び出された。1960年代、ウルグアイの都市ゲリラはトゥパマロスと名乗り、1968年に権力を握ったペルーの軍事政権は、彼を国民的な英雄として土地改革の象徴に掲げた。1980年代のペルーの武装組織は、彼の名を冠した(トゥパク・アマル革命運動)。アメリカのラッパー、トゥパック・シャクールの名も、彼にちなんで母親が付けたものである。四頭の馬にも裂けなかった体の話は、インカ帝国の記憶とともに、アンデスの人びとの抵抗の物語として語り継がれている。

この項目は誰でも直せます。編集する編集履歴
AD1738年の世界を地図で見る国境・できごと・生きている人が、その年のものに入れ替わります歴史データベースとは? →