モンゴメリー・バス・ボイコット

概要
一人が席を譲らなかったことから、黒人住民が381日間バスに乗らなかった。公民権運動の始まりとされる。
場所
32.37°N -86.30°E · アメリカ合衆国・アラバマ州
関わった人(2)
ローザ・パークスAD1913年2月4日–AD2005年10月24日 · きっかけキング牧師AD1929年1月15日–AD1968年4月4日 · 指導本文
1950年代のアメリカ南部では、白人と黒人を分ける決まりが暮らしのすみずみにあった。学校、食堂、トイレ、水飲み場、そしてバスである。アラバマ州の州都モンゴメリーの市営バスでは、前の座席は白人用、後ろは黒人用とされ、白人の席が埋まれば、黒人は運転手の指示で席を譲らなければならなかった。乗客の4分の3ほどは黒人だった。1954年、最高裁は公立学校での人種の分離を憲法違反とした(ブラウン判決)。だが南部の暮らしは変わらず、1955年の夏には、ミシシッピで黒人の少年エメット・ティルが殺されていた(エメット・ティル)。
1955年12月1日の夕方、仕事を終えたデパートのお針子ローザ・パークスは、バスの黒人席の前の列に座っていた。白人の乗客が増えると、運転手は彼女の列の4人に立つよう命じた。3人は従ったが、パークスは立たなかった。彼女は逮捕された。のちに彼女は、疲れていたのは体ではなく、言いなりになることに疲れていたのだ、と語っている。

パークスは、ただの通りすがりの乗客ではなかった。全米黒人地位向上協会(NAACP)の地元支部で書記を務め、その年の夏には、人種の平等を学ぶテネシー州の学校で研修を受けていた。この日の行動は、あらかじめ計画されたものではなかったが、地元の活動家たちは、彼女なら裁判で闘う顔になれると考えた。実はその年の3月、15歳の高校生クローデット・コルヴィンが、同じように席を譲らずに逮捕されていた。だが、まだ若く、その後に未婚のまま妊娠したことなどから、運動の象徴として前に出されることはなかった。
パークスの逮捕の夜、黒人の女性たちの団体を率いる大学教員ジョー・アン・ロビンソンらは、バスに乗るのをやめようと呼びかけるビラを夜通し刷った。月曜日の12月5日、パークスの裁判の日に、黒人の住民はほとんどバスに乗らなかった。その夜の集会で、運動を続けるための団体が作られ、会長に選ばれたのが、町に来て1年あまりの26歳の牧師キング牧師だった。

一日だけのつもりだったボイコットは、続いた。人々は何キロも歩いて職場へ通った。黒人のタクシーは、バスと同じ安い料金で人を運んだ。市がそれを禁じると、車を持つ人々が相乗りの仕組みを作り、決まった場所で人を拾って運んだ。教会が集会の場になり、献金が車の費用になった。
白人の側の反発は激しかった。1956年1月、キングの家に爆弾が投げ込まれた。家族は無事だったが、怒って集まった人々に、キングは暴力で応えてはならない、と語りかけた。キングはインドの塩の行進を率いたガンディーの非暴力の考えに学んでいた。2月には、ボイコットを禁じる古い州法を使って、キングら90人近くが起訴された。運転手たちは、乗らない黒人の乗客に嫌がらせを続けた。

一方で、法廷での闘いも進んでいた。1956年2月、コルヴィンら4人の黒人女性が、バスの人種分離は憲法違反だとして連邦の裁判所に訴えた。6月、裁判所は分離を違憲とした。市と州は上訴したが、11月、最高裁はこの判断を支持した。12月20日、判決にもとづく命令が市に届き、ボイコットは終わった。381日目だった。翌朝、キングらはバスの前の席に座った。
勝利の代償もあった。パークスは仕事を失い、脅迫を受け続けて、のちに家族とともに北のデトロイトへ移った。人種の分離をなくす闘いは、ここからが始まりだった。1957年にはリトルロックの九人が、1963年にはワシントン大行進が続き、1964年に公民権法が成立する。

モンゴメリーのボイコットは、普通の人々が、毎日の不便を一年以上耐えることで制度を変えた例になった。キングはこの運動で全国に名を知られ、公民権運動の指導者となった。パークスは2005年に92歳で亡くなり、その棺は女性として初めて、合衆国議会議事堂の円形の広間に安置された。