フアレスの改革とメキシコ帝国の崩壊

概要
先住民出身の大統領が教会の特権を削り、フランスが立てた皇帝を退けた。
場所
19.43°N -99.13°E · メキシコ
関わった人(1)
ベニート・フアレスAD1806年3月21日–AD1872年7月18日 · 当人本文
1821年に独立したメキシコは(メキシコの独立)、その後の30年あまり、政権が次々に倒れる混乱のなかにあった。教会と軍は植民地時代からの特権を保ち、独自の裁判所を持って、一般の法の外にいた。教会はメキシコの土地のかなりの部分を所有し、貸し付けで大きな富を握っていた。1846年からの米墨戦争では、国土の半分近くをアメリカに奪われた。国をどう作り直すかをめぐって、教会と軍を国の柱とする保守派と、法の下の平等を求める自由主義派が激しく争っていた。
ベニート・フアレスは、1806年、オアハカの山村に、サポテカの農民の子として生まれた。3歳で両親を亡くし、おじのもとで羊を飼って育った。12歳でオアハカの町に出たとき、スペイン語はほとんど話せなかった。製本職人の家に身を寄せ、神学校を経て法律を学び、弁護士になった。オアハカ州の知事を務めたあと、独裁者サンタ・アナに追われてアメリカのニューオーリンズに亡命し、葉巻を巻く仕事をしながら仲間と再起を図った。
1855年、サンタ・アナが倒れ、自由主義派が政権を握った。司法大臣となったフアレスは、聖職者と軍人の特別な裁判権を廃止する法を作った。続いて、教会など団体の持つ土地を売りに出させる法が作られ、1857年には、法の下の平等をうたう新しい憲法が定められた。
保守派と教会は激しく反発した。1858年、保守派が首都で政権を奪い、改革戦争と呼ばれる内戦が始まった。憲法の定めで大統領の座を継いだフアレスは、首都を追われ、港町ベラクルスに政府を置いて戦った。この戦いのさなかの1859年、フアレスはさらに踏み込んだ。教会の財産を国のものにし、結婚を教会ではなく国が扱う民事の契約とし、出生や死亡の届けを国の戸籍で管理し、墓地を国の管轄にした。教会と国家を切り離したのである。1861年の初め、自由主義派は内戦に勝ち、フアレスは首都に戻った。
だが国庫は空だった。1861年、フアレスは外国への債務の支払いを2年間止めると宣言した。イギリス、スペイン、フランスが共同で軍を送り、港を押さえた。イギリスとスペインは交渉のうえ引き揚げたが、フランスは残った。ナポレオン3世には、アメリカが南北戦争で手一杯のうちに、アメリカ大陸にカトリックの帝国を築き、フランスの影響を広げようという狙いがあった。

1862年5月5日、メキシコ軍はプエブラでフランス軍を撃退した。この日はいまも祝われている。だがフランスは援軍を送り、翌年には首都を落とした。保守派の求めに応じて、ナポレオン3世は、オーストリア皇帝の弟マクシミリアンをメキシコ皇帝として送り込んだ。1864年、マクシミリアンは妃カルロタとともに着任した。
マクシミリアンは、思いのほか自由主義的だった。フアレスの改革の多くをそのまま残し、教会の財産も返さなかった。そのため保守派の支持も失い、フランス軍の力に頼るほかなかった。フアレスは北へ北へと退き、アメリカとの国境の町パソ・デル・ノルテ(いまのシウダー・フアレス)にまで追い詰められたが、大統領の座を降りず、抵抗を続けた。

1865年、アメリカの南北戦争が終わった。アメリカはヨーロッパの介入を認めないとして、フランスに撤兵を迫った。ヨーロッパではプロイセンが力を伸ばし、フランスはメキシコに兵を置いておく余裕を失った。1866年から翌年にかけて、フランス軍は撤退した。
残されたマクシミリアンは、退位を勧められても国を去らず、ケレタロの町で包囲されて捕らえられた。ヨーロッパの君主や、文豪ヴィクトル・ユゴーらが助命を求めたが、フアレスは応じなかった。1867年6月、マクシミリアンは二人の保守派の将軍とともに銃殺された。外国の介入に対する、はっきりした答えだった。

首都に戻ったフアレスは、「個人のあいだでも国家のあいだでも、他者の権利を尊重することが平和である」と述べた。その言葉はいまもメキシコで広く引かれる。フアレスはその後も大統領に選ばれ、1872年、在任中に亡くなった。
フアレスの改革は、メキシコに政教分離と法の下の平等の原則を据えた。一方で、団体の土地を売らせる法は、先住民の村が共同で持っていた土地も対象にし、それが大地主の手に渡る道を開いた。先住民の出身の大統領の改革が、先住民の村の土地を失わせる面も持っていた。その矛盾は、のちの独裁とメキシコ革命へとつながっていく。