ドイツのハイパーインフレ
概要
1914年に1ドル4.2マルクだったものが、1923年11月に4兆2000億マルクになった。第一次大戦の戦費を国債で賄い、敗戦後は賠償と、ルール占領への消極的抵抗の費用を、紙幣の増刷で支えた。物価は数時間で変わり、賃金は日に二度払われ、鞄一杯の札束でパンを買った。年金と預金と生命保険が、紙になった。11月、レンテンマルクの発行で収まったが、中間層の貯蓄と、通貨への信頼と、共和国への支持が、同時に失われた。
場所
52.52°N 13.40°E · ドイツ
本文
1914年7月、1ドルはおよそ4.2マルクだった。戦争が終わった直後の1919年1月には9マルク近く、1921年1月には64マルク、1922年7月には493マルクになった。ここまでも十分に激しい下落だが、本当の崩壊はその後に来た。1923年1月には1万8000マルク近く、7月には35万マルク、9月には約1億マルク、10月には約250億マルク。そして11月20日、1ドルは4兆2000億マルクに達した。マルクの値打ちは、戦前の1兆分の1になったのである。
崩壊の根は、第一次世界大戦の戦費にあった。ドイツは戦争の費用の大部分を、税ではなく国債で賄った。イギリスやフランスと比べて、税で集めた割合はずっと小さかった。勝てば負けた国から賠償を取り、それで借金を返せばよい、という見込みである。

1871年の普仏戦争で、ドイツはフランスから50億フランの賠償を取った。その成功の記憶があった。開戦直後の1914年8月4日には、紙幣を金と交換する約束も停止され、中央銀行は政府の借金を紙幣で引き受けられるようになった。
ところがドイツは負けた。賠償を取る側ではなく、払う側になった。1919年のヴェルサイユ条約では賠償の額は決まらず、1921年のロンドンでの取り決めで、1320億金マルクと定められた。経済学者のジョン・メイナード・ケインズは、これは払えるはずのない額だと論じた。後の研究では、実際に求められた支払いは名目の額よりかなり小さく、ドイツに本当に払う力が無かったのかについては議論がある。ただ、当時のドイツの人々が、この賠償を不可能で不当なものと受け止めていたことは確かである。

国内の政治も揺れ続けていた。1918年の革命で皇帝が退位し、共和国が生まれた(ヴァイマル憲法)。だが左からは共産主義者の蜂起が、右からは1920年のカップ一揆のような旧軍人たちの反乱が、若い共和国を攻め立てた。左右から挟み撃ちにされている弱い政府には、税を大きく上げる力が無かった。足りない分は、中央銀行が刷る紙幣で埋められた。
最後の一押しは、1923年1月11日にやって来た。ドイツが賠償の一部である石炭や木材の引き渡しを滞らせたとして、フランスとベルギーの軍隊が、ドイツ最大の工業地帯であるルール地方を占領したのである。ドイツ政府は住民に、占領軍に協力しない「消極的抵抗」を呼びかけた。ルールの労働者はストライキに入り、炭鉱も工場も止まった。

そして政府は、働いていないその労働者たちに賃金を払い続けた。生産は無く、支払いだけがある。その金は、紙幣を刷って作るほかなかった。
1923年の秋、ドイツの中央銀行は、百を超える印刷所と千数百台の印刷機を昼夜休みなく動かして紙幣を刷った。紙もインクも足りなくなった。裏を刷る暇が無く、片面だけ印刷した紙幣が出回った。千マルク札に「十億マルク」と赤い判を押して使うこともあった。それでも追いつかず、各地の市町村や企業が、自前の紙幣を勝手に刷って配った。

暮らしは、数字の狂いに振り回された。給料は日に二度、朝と昼に払われるようになった。工場の門の前で妻が待っていて、夫から札束を受け取ると、そのまま店へ走った。一時間たてば値段が上がっているからである。
札束は手提げ鞄や手押し車で運ばれた。11月のベルリンでは、パン一斤が2000億マルク前後した。食堂では、食べ始める前と食べ終わった後で料理の値段が変わったという話が伝わる。薪を買うより札束を燃やしたほうが安く、子どもたちは札束を積み木にし、凧にして遊んだ。こうした写真は、いまもインフレを語るときに繰り返し使われる。

この崩壊で、誰がいちばん傷ついたのか。銀行に預けた金は、紙くずになった。戦争中、愛国心から買った国債も、紙くずになった。年金も、生命保険も、決まった額の家賃で家を貸していた家主の収入も、ほぼ無価値になった。損をしたのは、まじめに働き、少しずつ蓄えてきた人々、つまり教師や役人、年金暮らしの老人、小さな商店主といった中間層だった。
逆に得をした者もいた。借金をしていた者は、その借金が実質的に消えた。企業も農民も、そして最大の借り手である国家も、そうだった。土地や建物や工場や機械といった、形のある財産を持つ者は値打ちを保った。実業家のフーゴー・シュティンネスは、借金をして次々に企業を買い集め、値打ちの消えたマルクで返して巨大な企業群を築き、「インフレの王」と呼ばれた。だが彼が1924年に死ぬと、その帝国はまもなく崩れていった。

崩壊を止めたのは、新しいお金と、それを支える厳しい手当てだった。9月26日、政府はルールでの消極的抵抗をやめた。11月15日、新しい通貨レンテンマルクが発行され、1レンテンマルクは旧来の1兆マルクと定められた。建前のうえでは、ドイツの土地や工業の資産に設定した抵当が、この通貨の裏づけとされた。
だが実際にその担保を使うことはできず、効いたのは、人々がもう一度お金を信じようとした気持ちと、同時にとられた措置だった。中央銀行は政府にお金を貸すのをやめ、政府は役人を大量に減らしてでも収支を合わせた。この政策を指揮した通貨委員ヒャルマル・シャハトは、のちに中央銀行の総裁となり、ナチス政権の下で経済相を務めることになる。物価は数週間で落ち着いた。
1924年にはアメリカの銀行家ドーズの案で賠償の支払いが緩められ、アメリカからの融資がドイツの経済を回し始めた。1920年代の後半、ベルリンは映画やキャバレー、新しい芸術と建築(バウハウスの創立)で輝き、「黄金の20年代」と呼ばれた。しかし、その繁栄は、アメリカから流れ込む短期の資金に支えられていた。1929年に世界恐慌が始まり、その資金が引き揚げられると、ドイツの経済は再び崩れた。

1923年の傷は深かった。中間層は蓄えを失い、お金への信頼を失い、そして共和国への信頼を失った。蓄えを奪ったのは政府だ、と人々は受け止めた。実際、紙幣を刷り続けたのは政府だった。
この記憶は、その後のドイツの経済政策に長く影を落とす。第二次世界大戦の後に生まれた連邦銀行は、政府から強く独立し、何よりも物価の安定を重んじた。マルクを手放してユーロに加わるとき、ドイツはその原則を欧州中央銀行の仕組みに書き込ませた。2010年代のユーロ危機で、ドイツが各国に厳しい緊縮を求めた背景にも、この記憶があるとされる。

ただし、歴史家たちは一つの混同を指摘している。ヒトラーを政権に押し上げたのは、1923年のインフレではなく、1929年以降の物価の下落と大量の失業だった。1923年11月、ヒトラーはミュンヘン一揆を起こして失敗し、投獄されている。ナチスが選挙で第一党になるのは1932年、失業者が600万人に達した時代である。インフレを恐れる記憶が、大恐慌のさなかに政府がお金を絞る政策をとることを後押しし、それがかえって失業を深めた、という皮肉な見方もある。
ハイパーインフレは、ドイツだけに起きたことではない。同じ1920年代には、オーストリアやポーランド、ソ連も激しいインフレに見舞われた。1946年のハンガリーでは、物価が15時間ほどで倍になり、史上最悪とされる。1940年代のギリシアや中国、1980年代のボリビアやアルゼンチン、1990年代のユーゴスラビア、2000年代のジンバブエでは百兆ドル札まで刷られた。どの例にも、戦争か体制の危機があり、税を集められない政府が紙幣の印刷に頼ったという共通点がある。インフレとは、議会を通さず、誰から取るかを選ぶこともできない税なのである。