人物

エミリアーノ・サパタ

Emiliano Zapata
AD1879年8月8日 – AD1919年4月10日(享年39)
メキシコ重要度 3

概要

「土地と自由」。奪われた共有地を村へ返せと要求しつづけ、和解の席に誘い出されて殺された。

関わったできごと(1)

メキシコ革命1910年 · 南部の農民を率いた

本文

1879年8月8日、メキシコ市の南、モレロス州の村アネネクイルコに生まれた。家は小さな土地と家畜を持つ農民で、貧しくはないが豊かでもなかった。若いころは馬の扱いがうまく、馬の調教や売り買いで知られたという。

村の共有地が、大農園に取り上げられていた。モレロスは砂糖きびの産地で、19世紀の後半から、大農園(アシエンダ)が鉄道と輸出の波に乗って広がっていた。19世紀半ばの改革で教会や村の共有地を売りに出す法律ができ(フアレスの改革とメキシコ帝国の崩壊)、その後30年以上続いたポルフィリオ・ディアスの独裁のもとで、村々の土地は次々に農園に囲い込まれた。村人は自分の畑を失い、農園の日雇いになるしかなかった。

フアレスの改革とメキシコ帝国の崩壊に関わる図版:Alegoría de la Constitución de 1857
フアレスの改革とメキシコ帝国の崩壊Wikimedia Commons Petronilo Monroy · Public domain

1909年、30歳のサパタは村の代表に選ばれた。その返還を求めることから始めている。植民地時代にスペイン王から村に与えられた土地の証文を預かり、役所や裁判所に訴え、ときには仲間と柵を壊して畑を取り戻した。

1910年、フランシスコ・マデロがディアスの再選に反対して蜂起を呼びかけ、メキシコ革命が始まった。サパタは翌年、南部の農民を率いて加わり、5月にはモレロスの町クアウトラを激戦の末に落とした。その月のうちにディアスは国を去る。ところが大統領になったマデロは、土地の問題を法の手続きに任せ、まず武器を捨てるようサパタに求めた。土地を返してもらう前に武器を手放せば、何も戻ってこない。サパタは従わなかった。

エミリアーノ・サパタの肖像
エミリアーノ・サパタの肖像Wikimedia Commons Agustín Casasola · Public domain

1911年11月、サパタは教師オティリオ・モンターニョらとアヤラ綱領を出した。マデロを革命の裏切り者とし、奪われた土地を村へ返せ、大農園の土地の3分の1を買い上げて土地のない農民に分けよ、それに逆らう者の土地は取り上げよ、と要求した。「土地と自由」を掲げた。

革命の指導者が次々に交代するなか、その要求だけを変えなかった。1913年、将軍ウエルタがマデロを殺して権力を奪うと、サパタはウエルタと戦った。北部ではパンチョ・ビリャやカランサも兵を挙げ、1914年にウエルタは倒れた。今度は革命派どうしが争い、サパタはビリャと手を結んだ。同じ年の12月、二人の軍がメキシコ市に入り、大統領の椅子に座るビリャの横にサパタが並ぶ写真が残っている。だがサパタは都に長くとどまらず、すぐにモレロスへ帰った。国を取ることより、村に土地を返すことのほうが大事だった。

パンチョ・ビリャとサパタ
パンチョ・ビリャとサパタWikimedia Commons Public domain

1915年、サパタの支配したモレロスでは、実際に農園の土地が村々に分けられた。だが、カランサの軍がビリャを破って勢いを取り戻すと、モレロスにも攻め込み、村を焼き、住民を移して、サパタの軍の拠り所を奪おうとした。誰が大統領になっても、土地を返さなければ戦い続けた。だから、どの政権とも組めない。1917年、カランサのもとで新しい憲法ができ、その第27条は土地を国のものとし、村に土地を与える道を開いた。サパタの要求の一部は、敵の手で憲法に書き込まれたことになる。

1919年4月10日、カランサ派の大佐ヘスス・グアハルドが、寝返ってサパタの側に付くと持ちかけた。それを信じさせるために、政府側に付いていた兵たちを捕らえて処刑してみせたという。サパタは話し合いのためにチナメカの農園に招かれ、門をくぐったところで、儀礼の捧げ銃のふりをした兵たちに一斉に撃たれた。罠だった。39歳。遺体はクアウトラでさらされたが、本物ではない、サパタは山へ逃れて生きている、という噂が長く村々に流れた。

暗殺されたサパタ
暗殺されたサパタWikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

死後、その名が農民運動の象徴になる。1930年代、カルデナス大統領のもとで大規模な土地の分配が進み、村が共同で持つ土地(エヒード)がメキシコ中に広がった。だが1992年、政府は自由化を進めるため憲法第27条を改め、土地の分配を終わらせた。1994年、北米自由貿易協定が発効したその日に、チアパスで蜂起した先住民の集団が「サパティスタ民族解放軍」を名乗った(サパティスタの蜂起)。サパタの死から75年後になる。口ひげと大きなソンブレロの姿は、いまもメキシコの壁画やポスターの中で、奪われた土地を取り戻そうとする人々の旗印になっている。

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