アンドリュー・ジャクソン
概要
カロライナの辺境の孤児。13歳で独立戦争、イギリス兵に顔を斬られた。弁護士、決闘で人を殺した。1815年、ニューオーリンズでイギリスを破った。7代大統領。「オールド・ヒッコリー」。西部の白人の男全部の民主主義。合衆国銀行を潰した。猟官制。インディアン移住法。最高裁を無視した。奴隷を150人持っていた。20ドル札の顔で、2016年に外す案が出て、止まっている。
所属
アメリカ合衆国関わったできごと(1)
涙の道1830年 · 移住法本文
1767年3月15日、ノースカロライナとサウスカロライナの境にあるワックスホーの開拓地で生まれた。どちらの州で生まれたのかは、いまも両州のあいだで決着していない。両親は北アイルランドから渡ってきたばかりのスコッツ・アイリッシュの移民で、父は彼が生まれる数週間前に事故で亡くなっていた。母は3人の息子を連れて、親戚の家に身を寄せて暮らした。

アメリカ独立戦争は、彼の少年時代を奪った。長兄は戦闘のあとの暑さで倒れて死んだ。1781年、13歳か14歳の彼は兄ロバートとともにイギリス軍の捕虜となった。イギリスの将校に長靴を磨けと命じられて拒むと、将校は剣で斬りつけ、彼は頭と手に生涯消えない傷を負った。捕虜のあいだに天然痘にかかった兄は、解放されて間もなく死んだ。母は港に係留された捕虜船で病む同郷の兵士たちを看病しに行き、そこで病に倒れて亡くなった。14歳で天涯孤独となった少年は、イギリスへの憎しみを生涯抱き続けた。
彼は荒くれた若者として育ったが、独学で法律を学んで弁護士となり、1788年、西の新しい土地テネシーのナッシュヴィルへ移った。検事や判事を務め、土地の売買で財を成し、ハーミテージと名づけた農園を開いて、黒人奴隷を働かせた。下宿先の娘レイチェルと結婚したが、彼女の前の夫との離婚がまだ正式に成立していなかったことが後で分かり、二人は式を挙げ直した。この「重婚」は、政敵たちが生涯彼を攻撃する材料になった。気性は激しく、決闘を何度も重ねた。1806年には、妻を侮辱した男と決闘し、先に撃たれて胸に弾を受けながら、狙いを定めて相手を撃ち殺した。弾は心臓の近くに残り、一生体から取り出せなかった。

1812年、アメリカとイギリスのあいだで戦争が始まると、テネシーの民兵を率いた。1814年、テカムセの呼びかけに応じてアメリカに抗ったクリーク族の一派を、ホースシュー・ベンドの戦いで打ち破り、その後の条約でクリーク族から南部の広大な土地を奪った。のちにルイジアナ買収で得た西の土地へ先住民を移すという考えは、このころから彼の持論だった。兵たちは、ヒッコリーの木のように頑丈な彼を「オールド・ヒッコリー」と呼んだ。1815年1月8日、ニューオーリンズを攻めたイギリスの正規軍を、民兵や海賊、自由黒人、先住民の兵を寄せ集めた軍で迎え撃ち、イギリス軍に2000人を超える死傷者を出させたのに対し、自軍の死者はわずかだった。実はこの2週間前に、ヨーロッパで講和条約がすでに調印されていたが、その知らせはまだ海を渡っていなかった。それでも、この勝利で彼は国民的な英雄になった。1818年には、逃亡奴隷をかくまうセミノール族を討つとして、スペイン領フロリダに許可なく攻め込み、イギリス人2人を処刑して外交問題を起こした。
1824年の大統領選挙では、一般の投票でも選挙人の数でも1位だったが、過半数に届かず、下院の投票でジョン・クインシー・アダムズが選ばれた。アダムズ支持に回った下院議長クレイが国務長官になると、ジャクソンの支持者たちはこれを「腐敗した取引」と呼んで憤った。1828年、彼は雪辱を果たして当選した。財産のない白人男性にも選挙権が広がっていく中で、東部の名家の出ではない、辺境の叩き上げの男が初めて大統領になったのである。しかし当選の直後、妻レイチェルが急死した。選挙戦での中傷が妻を殺したと、彼は信じた。1829年3月の就任式の日には、祝福に詰めかけた群衆がホワイトハウスになだれ込み、家具や食器を壊した。

彼の政治は「ジャクソン民主主義」と呼ばれる。普通の人々の味方を名乗り、政府の役職を選挙で勝った側の支持者に配った(猟官制)。東部の資本家の道具だとして、合衆国銀行の特許の更新を拒み、政府の預金を引き揚げてこれを潰した。南部のサウスカロライナ州が連邦の関税を州内では無効だと宣言すると、連邦を守るためには軍を送ると脅して屈服させた。在任中に国の借金をすべて返し終えたのは、合衆国の歴史で彼の政権だけである。1835年には、暗殺を企てた男に2丁の拳銃を向けられたが、どちらも不発に終わり、67歳の大統領は杖で男に殴りかかった。
しかし、その「普通の人々」に先住民と黒人は入っていなかった。1830年、彼はミシシッピ川の東に住む先住民の諸部族を西へ移す法律に署名した。チェロキー族は裁判に訴え、最高裁はジョージア州の法律がチェロキーには及ばないと判断したが、ジャクソンはこれを実行させなかった。最高裁長官マーシャルが判決を下したのなら、彼自身に執行させればいい、と言ったと伝えられるが、この言葉は後世の創作とされる。先住民から取り上げた南部の土地には、綿繰り機の普及で儲かるようになった綿花の農園が広がり、そこで働かされたのは奴隷だった。数万の人々が故郷を追われ、1838年、次の政権のもとで行われたチェロキー族の強制移住では、数千人が途中で命を落とした(涙の道)。

1837年に退任してハーミテージに帰り、1845年6月8日、78歳で亡くなった。そのとき農園には150人ほどの奴隷がいた。1928年から20ドル札の肖像に使われてきたが、2016年、オバマ政権は、奴隷の逃亡を助けた黒人女性ハリエット・タブマンに替える計画を発表した。その後の政権交代で計画は先送りが続いている。
辺境の孤児から大統領になり、エリートの支配に挑んで政治を大衆に開いた英雄。先住民を故郷から追い出し、奴隷制の上に財を築いた権力者。アメリカの民主主義の広がりと、その外に置かれた人々の苦しみが、一人の中に同居している。彼とその支持者たちが作った民主党は、今日まで続く世界最古の政党の一つである。