概要
ナポレオンに敗れ、領土の半分を失った直後のプロイセンで、ヴィルヘルム・フォン・フンボルトが新しい大学を構想した。中世以来の大学は、既にある知識を教える場所だった。彼はそこに研究を持ち込んだ。教授は自分の研究を教え、学生はその研究に参加する(研究と教育の一致)。国家が金を出すが、内容には介入しない(学問の自由)。実験室とゼミナールが中核になった。19世紀後半、アメリカと日本の大学が、この形を輸入した。
場所
52.52°N 13.40°E · ドイツ
関わった人(1)
ヴィルヘルム・フォン・フンボルトAD1767年6月22日–AD1835年4月8日 · 構想した本文
**中世の大学**。
12〜13世紀に生まれた(ボローニャ、パリ、オックスフォード)。
その形。
- **ギルド**である。「universitas」は、もともと「組合」を意味する語。学生の組合(ボローニャ)、あるいは教師の組合(パリ)。 - 学部——**神学、法学、医学**(上級三学部)と、**自由学芸**(下級学部。文法、修辞、論理、算術、幾何、音楽、天文)。 - 教える内容は、**既にある権威ある書物**である。アリストテレス、ユスティニアヌスの法典、ガレノス、聖書と教父。 - 方法は、**講読**(レクティオ。教師が本を読み、注釈する)と**討論**(ディスプタティオ)。 - 目的は、**聖職者、法律家、医師の養成**。
つまり、**知識を伝える場所**であって、**新しい知識を作る場所**ではない。
(16〜18世紀の科学革命は、大学の外で起きた部分が大きい。ガリレオは大学教授だったが、彼の主要な仕事はメディチ家の宮廷でなされた。ニュートンは大学にいたが、彼の周囲に「研究する共同体」はなかった。王立協会やアカデミーといった、大学とは別の組織が、科学の担い手だった。)
**18世紀のドイツの大学**。
衰退していた。
学生は決闘と飲酒に明け暮れ、教授は古い講義を繰り返す。大学の数は多いが(神聖ローマ帝国に40以上)、質が低い。
例外——**ゲッティンゲン大学**(1737年設立)。ハノーファー選帝侯(イギリス王を兼ねる)が作った。図書館を充実させ、優れた教授を高給で招き、**神学部の支配を弱めた**。ここで、近代的な文献学と歴史学が育った。
(ゲッティンゲンは、後のベルリン大学の重要な先例である。)
**1806年**。
**イエナ・アウエルシュテットの戦い**。
ナポレオンが、プロイセン軍を1日で壊滅させた。
(同じ日、イエナの町で、**ヘーゲル**が『精神現象学』の原稿を書き上げていた。彼は、馬に乗ったナポレオンを見て、友人への手紙に「私は、世界精神が馬に乗って市中を通るのを見た」と書いた。)
**ティルジット条約**(1807年)。プロイセンは、領土の**約半分**と、人口の半分を失った。
**そして——ハレ大学を含む、いくつかの大学が、失われた領土とともに、フランス側に渡った**。
**国王の言葉**。
ハレ大学の教授たちが、国王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世に陳情した。
そのとき、国王が答えたと伝えられる言葉。
「**国家は、物理的な力において失ったものを、精神的な力によって取り戻さねばならない**」。
(この言葉が実際に発されたかは確認できない。しかし、当時の政策の方向を、正確に表している。)
**フンボルト**。
**ヴィルヘルム・フォン・フンボルト**。1767年生まれ。
彼は、職業的な教育行政官ではない。
- 貴族の家に生まれ、法学を学び、 - **ゲーテとシラーの親友**であり(シラーの創作に、長く助言を与えた)、 - **言語学者**であり、 - 外交官として、ローマ教皇庁とウィーンに駐在した。
1809年2月、彼は内務省の**文教局長**に任命された。
彼は、この職を望んでいなかった。何度も辞任を申し出た。
在任期間は、**わずか16か月**。
その間に、彼は——初等教育の改革、教員養成の制度化、ギムナジウムの再編、そして**ベルリン大学の設立**を進めた。
**構想**。
彼が書いた覚え書き「**ベルリンにおける高等学問施設の内的および外的組織について**」(1810年頃。生前は未公刊)。
その要点。
**(1)研究と教育の一致**(Einheit von Forschung und Lehre)。
教授は、既にある知識を教えるのではない。**自分が研究していることを教える**。
そして、学生は、その研究に**参加する**。
「大学の教師は、もはや教師ではなく、学生はもはや学習者ではない。学生は自ら研究し、教授はその研究を指導し、支援する」。
**(2)学問の自由**(Lehrfreiheit と Lernfreiheit)。
**教える自由**——教授は、何を、どう教えるかを、自分で決める。国家は介入しない。
**学ぶ自由**——学生は、どの講義に出るかを、自分で決める。決まった課程はない。大学から大学へ移ってもよい。
**(3)孤独と自由**(Einsamkeit und Freiheit)。
学問は、外部の目的(職業、実用、国家の要請)から離れた場所でなされねばならない。
**(4)純粋な学問**(reine Wissenschaft)。
役に立つかどうかを問わない。真理そのものを求める。
そして——**それが結果として、最も国家の役に立つ**。
(彼の論理は、逆説的である。国家が大学に何かを求めれば、大学は堕落する。国家が手を引けば、大学は繁栄し、その繁栄が国家を益する。)
**(5)哲学部の中心性**。
中世の大学では、哲学部(自由学芸)は、上級学部への準備の場だった。
フンボルトは、これを**逆転させた**。哲学部(現在の文学部と理学部にあたる)が、大学の中心である。神学、法学、医学は、応用の学部である。
(この考えは、カントの『諸学部の争い』〈1798年〉に遡る。)
**設立**。
**1810年10月**、ベルリン大学が開校した。
(フンボルトは、その4か月前に辞任している。彼は開校を見ていない。)
初代の総長は、哲学者**フィヒテ**。
教授陣——**シュライアーマッハー**(神学)、**サヴィニー**(法学)、**フーフェラント**(医学)、そして後に**ヘーゲル**(1818年〜)。
学生数、当初256人。
**制度としての発明**。
構想だけでは、大学は変わらない。実際に「研究と教育の一致」を可能にしたのは、二つの**制度**である。
**(1)ゼミナール**(Seminar)。
少人数で、教授と学生が、一つの問題を検討する。学生が報告し、批判を受ける。
(起源はゲッティンゲンの文献学ゼミナール〈1738年〉。19世紀に、あらゆる分野に広がった。**ランケ**の歴史学ゼミナール〈1825年〜〉が、近代の歴史学の方法——史料批判——を作った。)
**(2)実験室**(Laboratorium)。
**ユストゥス・フォン・リービッヒ**が、ギーセン大学に1826年頃から作った化学の実験室。
それまで、化学の実験は、教授が一人で(あるいは助手と)行うものだった。リービッヒは、**学生に、自分で実験させた**。
そして、実験の手順を標準化し、多数の学生が同時に作業できる部屋を設計した。
(彼の実験室から、19世紀の化学者の主要な人物の多くが出た。ホフマン〈パーキンの師〉、ケクレ、そしてドイツの染料工業を作った人々。)
**博士論文**。
学位が、**独自の研究**を要求するものになった。
(それ以前、博士号は試験に合格すれば得られた。19世紀のドイツで、「新しい知見を含む論文」が要件になった。この形式が、いまも世界中で使われている。)
**輸出**。
**アメリカ**。
19世紀後半、数千人のアメリカ人がドイツに留学した。
そして、帰国して大学を作った。
- **1876年、ジョンズ・ホプキンズ大学**。学長ダニエル・コイト・ギルマンが、明確にドイツの大学を模して設計した。**アメリカ最初の研究大学**とされる。 - クラーク大学(1889年)、シカゴ大学(1890年)。 - そして、既存の大学(ハーバード、イェール、コロンビア)が、大学院と研究の機能を加えた。
**日本**。
- 1877年、東京大学。当初は、お雇い外国人による教育が中心。 - 1886年、**帝国大学令**。「国家ノ須要ニ応スル学術技芸ヲ教授シ及其蘊奥ヲ攷究スル」——教授と研究の両方が、明文で書かれた。 - 森有礼と、ドイツ留学者たち(青木周蔵、加藤弘之)が、ドイツの制度を強く参照した。
(ただし、日本の帝国大学は、「国家ノ須要ニ応スル」という文言が示すとおり、**国家に奉仕する**ことが明示されていた。フンボルトの「国家からの独立」とは、方向が違う。)
**限界と、その後**。
フンボルトの理念は、実現したときから、既に理念であった。
- 大学が拡大すると、少人数のゼミナールは維持できない。 - 実験室と研究は、金がかかる。金を出すのは、国家か、産業である。だから、独立は難しい。 - 19世紀後半、ドイツの大学は、国家と産業に深く結びついた(染料、電機、化学)。 - そして、1933年。ドイツの大学は、ナチスに対して、ほとんど抵抗しなかった。多くの教授が党に協力し、ユダヤ人の同僚が追放されるのを黙って見た。(ハイデガーがフライブルク大学の総長として就任演説を行ったのは、1933年5月である。)
**それでも**。
現在、世界のほぼすべての大学が、この形をしている。
**研究する教授が、学生を教える**。**学生が、研究に参加する**。**博士論文が、新しい知見を要求する**。
そして、その理由づけとして、いまも「学問の自由」が語られる。
1810年、国土の半分を失った国が、その敗北の後に作った制度である。