ドレフュス事件

概要
ユダヤ人の砲兵大尉が、ドイツへの通敵の罪で、筆跡だけで、終身流刑になった。悪魔島。真犯人エステラジーが分かっても、軍は隠した。1898年1月13日、ゾラの「私は弾劾する」。フランスが二つに割れた。再審、有罪、特赦、1906年に無罪。反ユダヤ主義が街に出た。ウィーンの記者ヘルツルはそれを見て、ユダヤ人の国を考えた。
場所
48.86°N 2.35°E · フランス
関わった人(2)
アルフレド・ドレフュスAD1859年10月9日–AD1935年7月12日 · 有罪にされたエミール・ゾラAD1840年4月2日–AD1902年9月29日 · 弾劾した本文
1870年の普仏戦争で、フランスはプロイセンに敗れ(スダン(セダン)の戦い)、アルザスとロレーヌの一部を奪われた。第三共和政のフランスで、軍は失った土地を取り戻す日に備える国の誇りの象徴であり、その威信を傷つけることは許されない雰囲気があった。一方で1880年代からは、ユダヤ人を国を蝕む者として攻撃する言論が勢いを増していた。1886年にエドゥアール・ドリュモンが書いた『ユダヤのフランス』は大評判になり、彼の新聞は、ユダヤ人の金融家や将校を名指しで攻撃した。1892年に明るみに出たパナマ運河会社の疑獄にユダヤ系の仲介人がかかわっていたことも、反ユダヤの感情をあおった。
1894年9月、フランス陸軍の参謀本部の情報部に、一枚の書類が届けられた。パリのドイツ大使館で掃除婦として働いていた情報部の協力者が、武官の屑籠から集めてきたものだった。書類はフランス軍の大砲や部隊の配置にかかわる機密の文書を送ると記した明細書で、送り主の名は無かった。参謀本部に出入りできる砲兵の将校が怪しいとされ、疑いはアルフレド・ドレフュス大尉に向けられた。アルザスの裕福な織物業者の家に生まれたユダヤ人で、参謀本部で研修中の優秀な将校だった。筆跡が似ている、という以外に、証拠らしい証拠は無かった。

10月15日、ドレフュスは逮捕された。12月、非公開の軍法会議が開かれた。陸軍の首脳は、有罪を確実にするため、弁護側には見せないまま、判事たちに「秘密の書類」を渡した。中身はドレフュスとは関係のない手紙などで、のちに一部は偽造だったことも分かる。12月22日、判事たちは全員一致で有罪とし、ドレフュスに軍籍の剥奪と終身の流刑を言い渡した。
1895年1月5日、パリの陸軍士官学校の中庭で、軍籍を剥奪する儀式が行われた。下士官がドレフュスの軍服から肩章や飾りをむしり取り、剣を膝で折った。ドレフュスは、私は無実だ、フランス万歳、と叫び続けた。柵の外に集まった群衆は、ユダヤ人に死を、と叫んだ。ドレフュスは、南米のフランス領ギアナの沖に浮かぶ悪魔島に送られた。囚人は彼一人で、看守は話しかけることを禁じられた。一時は夜のあいだ寝台に足を鎖でつながれた。彼はそこで4年あまりを過ごした。

1896年、情報部の新しい部長になったジョルジュ・ピカール中佐が、ドイツ大使館から出た別の書類を手がかりに、エステラジーという少佐に行き当たった。借金と賭け事にまみれた将校で、その筆跡は明細書の筆跡と一致した。ピカール自身も、ユダヤ人に好意を持っていたわけではない。だが彼は真実を上官に報告した。上官は、ユダヤ人が一人悪魔島にいることが何だというのか、という態度で取り合わず、ピカールはやがてチュニジアの部隊へ飛ばされた。その間に、情報部のアンリ少佐は、ドレフュスの有罪を裏づけるための書類を偽造していた。
ドレフュスの兄マチューは、弟の無実を信じて、ジャーナリストや政治家に働きかけ続けた。1897年11月、マチューはエステラジーを真犯人として告発した。しかし1898年1月、エステラジーは軍法会議で、わずか数分の評議で無罪とされた。

その2日後の1898年1月13日、作家エミール・ゾラが、新聞『オーロール』の一面に、大統領フェリックス・フォールにあてた公開の手紙を載せた。見出しは「私は弾劾する」。ゾラは、ドレフュスを陥れ、真犯人をかばった参謀本部の将軍たちの名を一人ずつ挙げ、その罪を告発した。新聞は30万部刷られ、昼までに売り切れたといわれる。ゾラは名誉毀損で訴えられて有罪となり、判決を逃れてイギリスへ渡った。
フランスは真っ二つに割れた。再審を求めるドレフュス派には、共和派の政治家や社会主義者、作家や学者や芸術家が集まった。政治家のクレマンソー、社会主義者のジョレス、作家のプルースト、画家のモネらがいた。ゾラの手紙の翌日、学者や作家たちが再審を求める声明を出し、彼らは「知識人」と呼ばれた。この言葉が、社会に向かって発言する人々を指す意味で広まったのは、このときからだとされる。反ドレフュス派には、軍の名誉と国の秩序を守れと唱える軍人やカトリック教会、王党派、反ユダヤ主義者たちが集まった。家族や友人のあいだでも争いになり、食卓で事件の話を持ち出したために大げんかになる家族を描いた風刺画が評判になった。

1898年8月、アンリ少佐が文書の偽造を認め、翌日、牢の中でかみそりで喉を切って死んだ。エステラジーは国外へ逃げ、のちに明細書を書いたのは自分だと認めた。1899年、ドレフュスは悪魔島から呼び戻され、レンヌで再び軍法会議にかけられた。軍は面子を捨てられなかった。判決は、情状酌量の余地のある反逆という奇妙なもので、再び有罪だった。数日後、大統領が特赦を与え、ドレフュスは自由の身になったが、罪を認めたことになる特赦を受け入れるかどうか、本人も支援者たちも悩んだ。最高の裁判所である破毀院がレンヌの判決を取り消し、ドレフュスの無罪を確定させたのは、1906年のことである。ドレフュスは少佐として軍に戻り、レジオン・ドヌール勲章を受けた。ピカールはのちに陸軍大臣になった。
事件は、フランスの政治を大きく動かした。ドレフュス派の共和派と社会主義者が政権を握り、軍と教会の影響を抑える政策を進め、1905年には国と教会を分ける法律が作られた(フランスの政教分離法)。一方で反ドレフュス派の流れは、のちの右翼の運動に受け継がれていった。

ウィーンの新聞の特派員としてパリにいたテオドール・ヘルツルは、軍籍剥奪の儀式を取材し、ユダヤ人に死をという叫びを聞いた。人権宣言を生んだ革命の国でさえ、同化したユダヤ人がこう扱われる。彼はのちに、この経験がユダヤ人の国を求める考えに向かう転機になったと語った。ただ、ヘルツルがシオニズムに傾いた理由はそれだけではなく、事件の影響は後から強調されたとみる研究者もいる。1896年、ヘルツルは『ユダヤ人国家』を書き、翌年バーゼルで第1回シオニスト会議を開いた。その半世紀後にイスラエルの建国がある。
ドレフュスは第一次世界大戦にも従軍し、1935年に亡くなった。フランス陸軍が、彼の無実を公式に認める声明を出したのは、それから60年後の1995年だった。