人物

ナポレオン・ボナパルト

Napoleon Bonaparte
AD1769年8月15日 – AD1821年5月5日(享年51)
フランス重要度 5

概要

革命の混乱から皇帝に上り、ヨーロッパの大半を支配した。敗れた後も法典と国民国家の考えが残る。

関わったできごと(5)

フランス革命1789年 · この混乱から台頭するナポレオンのエジプト遠征1798年 · 率いたナポレオン法典AD1804年3月21日 · 作らせたナポレオンのロシア遠征AD1812年6月24日 · 総指揮ワーテルローの戦いAD1815年6月18日 · 敗者

本文

1769年8月15日、地中海のコルシカ島アジャクシオに生まれた。島はその前年にジェノヴァからフランスへ譲られたばかりで、家はイタリア系の下級貴族だった。母語はコルシカの言葉で、フランス語には終生なまりがあったとされる。9歳でフランス本土の幼年学校に入り、パリの士官学校を経て16歳で砲兵少尉になった。革命がなければ、砲兵の一将校で終わっていたはずである。

フランス革命が出世の道を開いた。1793年、王党派とイギリス軍が押さえた港町トゥーロンの攻囲で、砲台の配置を提案して攻略に功を立て、24歳で准将に上る。マクシミリアン・ロベスピエールの失脚で一時は投獄されたが、1795年、パリの王党派の蜂起を大砲で鎮めて再び浮かび上がった。翌年ジョゼフィーヌと結婚し、イタリア方面軍の司令官になる。

フランス革命に関わる図版:Anonymous - Prise de la Bastille
フランス革命Wikimedia Commons Unidentified painter · Public domain

統領の時代には、のちのフランスの土台になる仕組みを次々に作った。優秀な若者を育てる国立の高等中学校(リセ)、身分によらず功績に与えるレジオン・ドヌール勲章、県知事を通じた中央集権の行政である。どれも形を変えながら、いまのフランスに残っている。

イタリアでは、数で勝るオーストリア軍を各個に破った。強さは、部隊を分けて速く動かし、決戦の場所で一気に集めるという運用にあった。徴兵制で数を揃えられたこと、身分によらず能力で将校を抜擢したことも大きい。1798年のナポレオンのエジプト遠征では、艦隊をネルソンに沈められて退路を失ったが、同行させた学者たちがロゼッタ・ストーンを見つけ、のちのロゼッタ・ストーンの解読につながった。

フランソワ・ジェラール画『ナポレオン1世』
フランソワ・ジェラール画『ナポレオン1世』Wikimedia Commons Workshop of François Gérard · Public domain

1799年、エジプトの軍を置いて帰国し、ブリュメールのクーデターで第一統領になる。30歳だった。教皇と和解して宗教の混乱を収め、銀行を作り、行政の仕組みを中央から県へ一本で通した。1804年3月に民法典(ナポレオン法典)を公布する。所有権の保障、契約の自由、法の前の平等を定めた法典で、家族については夫と父の権威を強く残した。同じ年の12月、パリのノートルダム大聖堂で皇帝に即位した。教皇を招きながら、冠は自分の手で頭に載せている。

1805年10月、トラファルガーの海戦でフランス・スペイン艦隊が敗れ、海でイギリスを倒す道は消えた。だが12月のアウステルリッツでは、ロシアとオーストリアの連合軍を破る。翌年には神聖ローマ帝国が解体され、大陸封鎖令でイギリスとの交易を大陸から締め出そうとした。

ダヴィッド『サン=ベルナール峠を越えるボナパルト』
ダヴィッド『サン=ベルナール峠を越えるボナパルト』Wikimedia Commons Jacques-Louis David · Public domain

征服した先には、民法典と、身分によらない法の適用を持ち込んだ。封建的な特権が消えた地域は、そのまま戻らなかった。同時に、それは占領であり、重い税と徴兵を伴った。1808年に兄をスペイン王に据えると、民衆のゲリラ戦が始まり、何年も兵を吸い取られる。彼が広めた国民という考えが、彼への抵抗を作った。

1812年のナポレオンのロシア遠征が転機になる。率いた大陸軍は45万とも60万ともいわれ、モスクワには入ったが、町は焼け、ロシアは講和に応じなかった。冬の退却で、帰り着いた兵はごく一部だった。翌1813年、ライプツィヒの戦いで諸国の連合軍に敗れ、1814年に退位してエルバ島へ送られる。

ナポレオンのロシア遠征に関わる図版:IV corpo durante la campagna di Russia
ナポレオンのロシア遠征Wikimedia Commons Albrecht Adam · Public domain

私生活では、跡継ぎを得られないことを理由に、1809年にジョゼフィーヌと離婚した。翌年、オーストリア皇帝の娘マリー・ルイーズを妻に迎え、1811年に息子が生まれる。革命の申し子が、古い王家と縁を結んで王朝を作ろうとしたことになる。息子はローマ王の称号を受けたが、父の失脚後はウィーンで育ち、21歳で病死した。

1815年、島を抜け出してパリへ戻り、再び帝位に就いた。百日天下と呼ばれる。6月18日、ワーテルローの戦いでウェリントンとプロイセン軍に敗れ、大西洋の孤島セントヘレナへ流された。戦後の秩序はウィーン会議で組み直される。

ワーテルローの戦いに関わる図版:Battle of Waterloo 1815
ワーテルローの戦いWikimedia Commons William Sadler · Public domain

島では口述で回想録を残し、自分を革命の理念の守り手として描いた。1821年5月5日、51歳で死んだ。死因は胃癌とする見方が有力だが、遺髪から砒素が出たことから毒殺説もいまだに語られる。背が低かったという話は、イギリスの風刺画と、フランスとイギリスで単位の長さが違ったことから広まったもので、当時の平均並みだったとされる。

評価は割れる。法の下の平等と近代の行政を大陸に広めた人であり、数百万の死者を出した戦争を十数年続けた人でもある。カリブ海の植民地で一度廃止された奴隷制を、1802年に復活させたことも忘れられがちな一面である。甥はのちにナポレオン3世として帝位に就き、伯父の名を政治の資産として使った。

父・カルロ
父・カルロWikimedia Commons Attributed to Anton Raphael Mengs · Public domain

遺骸は死後19年たった1840年、イギリスの許しを得てパリへ戻され、セーヌ河岸のアンヴァリッドに葬られた。数十万の人が葬列を見に集まったという。

その奴隷制の復活に抗ったサン・ドマング(いまのハイチ)へは大軍を送ったが、黒人の抵抗と黄熱病で失敗し、1804年にハイチは独立した。アメリカ大陸の足場を失ったナポレオンは、広大なルイジアナを1803年にアメリカ合衆国へ売り渡している。合衆国の領土はこれでほぼ倍になった。

動画(2)

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