ベハンジン
概要
ダホメ最後の王。女性だけの部隊を含む軍でフランスと2年戦い、敗れてマルティニークへ流された。
関わったできごと(1)
ダホメの女性部隊1729年 · 最後の王本文
ベハンジンは、西アフリカのダホメ王国の最後の独立した王である。いまのベナン南部、内陸の都アボメイを中心に、ダホメは17世紀から続いてきた。王は大きな宮殿に住み、毎年の儀礼で権威を示し、周辺へ兵を出して捕虜を得た。その捕虜の多くは、海岸の港ウィダで大西洋を渡る奴隷として売られた(大西洋奴隷貿易)。19世紀に奴隷の輸出が細ると、王国はパーム油の取引へと重心を移していった。

ベハンジンは1845年ごろ、王グレレの子として生まれた。即位前の名はコンドといい、早くから跡継ぎとして育てられた。1889年の末にグレレが死に、翌年はじめにかけて王位に就いた。王名ベハンジンは、即位のときに掲げた格言から取られたもので、世界は大地の望む卵を抱いている、という意味だと伝えられる。王の象徴は鮫だった。
ちょうどその頃、ヨーロッパの国々はアフリカの分け取りを急いでいた(アフリカ分割)。フランスは海岸の港コトヌーとポルトノボへの権利を主張していた。ダホメは、コトヌーについては使用を許しただけで、土地を譲ったわけではないと考えていた。条約の読み方の食い違いが、そのまま戦争の火種になった。

1890年、最初の戦争が起きた。ダホメ軍はコトヌーのフランス陣地を攻めたが、連発銃と砲を持つ守りを崩せなかった。秋に和議が結ばれ、ダホメはフランスがコトヌーを使うことを認め、その代わりに毎年の支払いを受けることになった。ベハンジンはこの間に、ドイツなどの商人から新式の銃と砲を買い集め、次の戦いに備えた。
1892年、フランスは本格的な征服に乗り出した。指揮を執ったのはセネガル生まれの軍人アルフレッド・ドッズ大佐である。フランス軍は外人部隊やセネガルの歩兵を含む数千人で、川沿いに北へ進んだ。ダホメ軍は何度も正面から突撃し、そのなかには女性だけで編成された部隊もいた(ダホメの女性部隊)。ヨーロッパ人が「アマゾン」と呼んだ兵たちで、王に仕える精鋭として恐れられていた。しかし連発銃と大砲の前で、突撃のたびに大きな損害を出した。戦いは2か月近く続き、11月、フランス軍はアボメイに入った。ベハンジンは都を明け渡す前に火を放ち、北へ退いたと伝えられる。

ベハンジンは内陸に逃れて抵抗を続け、交渉の道も探った。フランス本国へ使者を送ろうとしたが、相手にされなかった。フランスは彼の兄弟アゴリ=アグボを新しい王に立て、ベハンジンの支持を削いでいった。1894年1月、ベハンジンは降伏した。
フランスは彼を本国から遠く離した。カリブ海のマルティニークへ流し、家族の一部と共にそこで10年以上を過ごさせた。王が祖国へ戻ることを繰り返し願い出ても、許されなかった。1906年、ようやくアフリカに戻ることが許されたが、行き先はアルジェリアで、ダホメではなかった。その年の12月10日、ベハンジンはアルジェで死んだ。60歳前後だった。
ダホメはフランス領西アフリカの一部になった。アボメイの宮殿から持ち出された王の玉座や像、扉は、フランスの博物館に収められた。そのなかには、半ば鮫、半ば人の姿をしたベハンジンの像もあった。2021年、フランスはこれらのうち26点をベナンに返還した。ベハンジンの像はその中心にあった。
ベナンが1960年に独立すると、ベハンジンは植民地支配に屈しなかった王として讃えられるようになった。アボメイの宮殿の跡は世界遺産に登録され、町にはベハンジンの像が立つ。ただ、ダホメの富と軍事力は、周辺の人びとを捕らえて売ることで支えられてきた面がある。最後まで外からの征服に抵抗した王国と、奴隷の取引で栄えた王国は、同じ一つの国である。ベハンジンを語るとき、ベナンでもその両方が議論されている。