御成敗式目
概要
北条泰時が51か条の法を定めた。「道理」。武士の慣習を文字にした。女の相続、20年の占有、悪口の禁止。「京の人は笑うだろうが、これは文字を知らない者のための法」。それから600年、武家の法はここから始めた。
場所
35.32°N 139.55°E · 日本・神奈川県
関わった人(1)
北条泰時AD1183年–AD1242年7月14日 · 執権本文
貞永元年(1232年)8月、鎌倉幕府の執権北条泰時は、51か条からなる武家の法を定めた。御成敗式目である。制定の年号から貞永式目とも呼ばれる。武士が武士のために作った最初の本格的な法典で、その後の武家の法の手本となり、江戸時代には寺子屋で子どもたちの読み書きの教科書にまで使われた。
式目が作られる11年前、承久の乱で幕府は後鳥羽上皇の軍を破った。幕府は上皇の側についた貴族や武士の所領3000か所あまりを取り上げ、そこに東国の御家人を新しい地頭として送り込んだ。こうして西国にも地頭が一気に増えたが、西国の荘園には、長い歴史を持つ貴族や寺社の領主がいて、土地ごとに古い慣習があった。新しく来た地頭と、荘園の領主や現地の人々との間で、年貢や土地をめぐる争いが絶えなくなった。

さらに1230年から翌年にかけて、寛喜の大飢饉が全国を襲った。冷夏と長雨で作物が実らず、多くの人が飢え死にし、土地を捨てて逃げる者や、身を売る者が相次いだ。所領の争いも、人の売り買いの争いも増えた。幕府は数多くの訴えを裁かなければならなかったが、何を基準に裁くのかがはっきりしていなかった。
源頼朝以来の幕府の裁判は、頼朝が下した判断の先例と、武士の社会の慣習に頼っていた。泰時は1225年に、有力な御家人や幕府の文官からなる評定衆を置き、重要な政治と裁判を合議で決める仕組みを作っていた。その評定衆とともに、裁判の基準を文字にして示したのが御成敗式目である。評定衆は、式目に従って公平に裁くことを神仏に誓う起請文に署名した。

式目の条文は、身近で具体的である。第1条は神社を修理して祭りを大切にすること、第2条は寺や塔を修理して仏事を行うことを定める。第3条は守護の役目を、京都の警固に御家人を送ること、謀反人を捕らえること、殺害人を捕らえることの三つに限り、それ以上の口出しを禁じた。第5条は、地頭が荘園の年貢を領主に納めずにとどめた場合の扱いを定めている。第6条は、国司や荘園領主の支配の中のことに、幕府は口を出さないと定めた。
第8条は、のちによく知られた規定である。ある土地を実際に20年以上支配してきた者がいれば、たとえ元の持ち主が訴えても、その土地を取り上げない。いまで言う時効にあたる。証文があるかどうかよりも、実際に土地を治めてきた事実を重んじた。第12条は、人をののしる悪口を罰し、重ければ流罪、軽ければ牢に入れるとした。悪口は、刀を抜いての争いの始まりになるからである。第13条は、人を殴った者は、侍であれば所領を取り上げる、と定めた。

女性の権利についての条文も、式目の特徴として知られる。当時の武士の社会では、女性も親から所領を譲られ、地頭になることができた。第18条は、親が娘に所領を譲ったあとでも、親はそれを取り戻すことができる、と定めた。親の権威を重んじる規定だが、裏を返せば、娘に所領を譲ることが当たり前に行われていたことを示している。第23条は、子のいない女性が養子を取って所領を譲ることを認めた。律令の法では認められていないが、頼朝の時代以来、数えきれないほど行われてきた武家の慣習だから認める、と条文は説明している。
泰時は、式目を作った理由を、京都にいる弟の北条重時(六波羅探題)に宛てた手紙で詳しく説明している。この式目は何を根拠にしたのかと人は問うだろう。特定の法典に基づいたものではなく、ただ道理の指すところを記したものである。京都の人々は、こんなものをと笑うかもしれない。しかし、あらかじめ定めておかないと、人の身分の上下によって判断が偏ってしまう。律令は漢字を知る者のためのもので、世の中には仮名しか知らない者が多い。そういう人々にも分かるように、この式目を作ったのだ。そして、これによって朝廷の律令が少しでも改まるものではない、とも書いている。
泰時の手紙には、式目の性格がよく表れている。それは、朝廷の律令(大宝律令以来の法)に取って代わるものではなく、幕府の支配が及ぶ武士とその土地の争いを裁くための法だった。「道理」とは、武士の社会で長く積み重ねられてきた常識と、公平さの感覚のことである。中国から学んだ理想の国家の法ではなく、自分たちの暮らしの中から生まれた規範を文字にした。そこに、この法典の新しさがあった。
式目はそれで終わりではなかった。幕府は必要に応じて新しい法令を加えていき、それらは「追加法」と呼ばれた。式目そのものは改められることなく、その上に追加法が積み重ねられていった。
1333年に鎌倉幕府(鎌倉幕府の成立)が滅んだあとも、式目は生き続けた。足利尊氏が1336年に室町幕府の方針として示した建武式目は、その名を借りている。室町幕府も御成敗式目を基本の法として受け継ぎ、戦国時代の大名たちが自分の領国のために作った分国法にも、式目の影響が見られる。江戸時代になると、式目は法としての役目を終えたが、その文章は手習いの手本として広く使われ、寺子屋の子どもたちが書き写して文字を覚えた。
泰時は、公平な人柄で知られた。寛喜の大飢饉の際には、自らの食事を減らし、蔵の米を人々に貸し与えて、返せない者の借りは帳消しにしたと伝えられる。1242年に泰時が死んだとき、その死を惜しむ声は京都にまで広がった。
御成敗式目が作られたのは、イングランドで国王の権力を制限するマグナ・カルタが作られた17年後のことである。二つの文書は性格がまったく違い、並べて比べることには慎重であるべきだが、どちらも、力を持つ者が自分たちの手で、守るべききまりを文字にして示したという点では通じるところがある。式目は、日本で武士が政治を担う時代の、法の出発点になった。