できごと

『コモン・センス』

Common Sense
AD1776年1月10日
重要度 4
『コモン・センス』に関わる図版:Commonsense
Commonsense Wikimedia Commons Scanned by uploader, originally by Thomas Paine. · Public domain

概要

匿名の小冊子が、王政そのものを否定して独立を説いた。数か月で10万部を超え、半年後に独立宣言が出る。

場所

フィラデルフィア
39.95°N -75.17°E · アメリカ合衆国・ペンシルベニア州

関わった人(1)

トマス・ペインAD1737年2月9日–AD1809年6月8日 · 著者

本文

1775年4月、レキシントン・コンコードの戦いで北アメリカの植民地の民兵とイギリス軍が撃ち合い、戦争が始まっていた。6月にはボストン郊外で激戦があり、大陸会議はジョージ・ジョージ・ワシントンを総司令官に任じた。それでも、植民地の人々の多くは、まだ独立を口にしていなかった。戦っている相手はイギリス議会と国王の悪い大臣たちであって、国王ジョージ3世その人ではない。王に忠誠を誓ったまま、課税の不当さを正してもらう。それが大方の考え方だった。大陸会議は同じ年の夏にも、国王に和解を願う請願を送っている。

国王はこれを受け取らず、植民地が反乱の状態にあると宣言した。秋の議会の演説でも、反乱を鎮圧すると述べた。その演説の知らせがフィラデルフィアに届いたのと同じ頃、1776年1月10日に、一冊の小冊子が売り出された。題は『コモン・センス』、常識である。50ページに満たない薄い本で、表紙に著者の名は無く、「一人の英国人によって書かれた」とだけあった。

トマス・ペインの肖像
トマス・ペインWikimedia Commons Auguste Millière / After George Romney / After William Sharp · Public domain

著者はトマス・ペイン、38歳。イングランドの東部の町に生まれ、コルセット職人や収税吏などの職を転々とし、どれも長続きしなかった。ロンドンでベンジャミン・フランクリンと知り合い、その紹介状を手に、1774年の暮れにフィラデルフィアへ渡ってきたばかりだった。雑誌の編集をしながら、植民地の争いを間近に見ていた。

ペインはまず、社会と政府を分けて論じた。社会はどんな状態にあっても恵みだが、政府は最善のものでさえ必要悪にすぎない。そのうえで、王政と世襲そのものを攻撃した。世襲の王がいいのなら、なぜ自然は時に、ロバを獅子の代わりに王座に据えて人々をあざ笑うのか。イングランドの王家の始まりをたどれば、武装した一団を率いて上陸したフランスの私生児にすぎない、と、1066年のウィリアム征服王を罵った。ジョージ3世を「英国の王冠をかぶった獣」とまで呼んでいる。

そして独立を正面から説いた。小さな島が大きな大陸を永遠に治めるのは理屈に合わない。イギリスとつながっていれば、ヨーロッパの戦争に巻き込まれるだけで、交易にとっても何の得もない。議論の時は終わった。武器が最後の決着をつける。アメリカの大義は、かなりの程度まで全人類の大義である。

書き方が新しかった。当時の政治論は、ラテン語の引用や法律の議論を重ねた学者の文章が多かった。ペインは聖書のたとえと、職人や農民にも分かる平易な言葉で書いた。本は酒場や集会で読み上げられ、字の読めない人々にも届いた。ペイン自身は、3か月で12万部が出回ったと述べ、のちには50万部とも言われた。250万人ほどの植民地としては驚くべき数だが、この数字には誇張があるとする研究者もいる。それでも、当時のアメリカで最も広く読まれた本の一つだったことは間違いない。

効き目はすぐに表れた。ワシントンは手紙の中で、この本の健全な主張と反論の余地のない論理が、多くの人の考えを変えつつあると書いた。各地の植民地議会が、大陸会議の代表に独立へ賛成する許しを与えはじめる。半年後の1776年7月4日、トマス・ジェファソンが起草したアメリカ独立宣言が採択された。

アメリカ独立宣言に関わる図版:United States Declaration of Independence
アメリカ独立宣言Wikimedia Commons original: w:Second Continental Congress ; reproduction: William Stone · Public domain

ペインは本の利益を受け取らず、寒冷地で戦う兵士のための手袋の購入に充てるよう求めたと伝えられる。ただし出版者との間で利益の扱いをめぐって争いになり、事情はやや込み入っている。その年の冬、独立軍が負け続け、兵士たちが去りかけていたとき、ペインは従軍しながら新たな小冊子『アメリカの危機』を書いた。今は人の魂が試される時だ、という書き出しで知られ、ワシントンは川を渡って奇襲をかける前に、それを兵士たちに読み聞かせたという。

独立の後、ペインはヨーロッパに渡った。フランス革命が起きると、それを擁護する『人間の権利』を書いてイギリスで反逆者とされ、フランスでは国民公会の議員に選ばれた。だが国王ルイ16世の処刑に反対して投獄され、危うく断頭台を逃れた。獄中で書いた『理性の時代』では、教会と聖書の権威を批判した。このためアメリカに戻ったとき、彼は無神論者として嫌われ、かつての名声は失われていた。1809年にニューヨークで没したとき、葬儀に参列したのはわずか数人だったと伝えられる。

フランス革命に関わる図版:Anonymous - Prise de la Bastille
フランス革命Wikimedia Commons Unidentified painter · Public domain

それでも、王のいない国が成り立つと人々に信じさせたのは、この薄い一冊だった。植民地の不満を、国王への請願から、人間の権利と共和国の理念へと引き上げたことで、『コモン・センス』は独立革命の言葉そのものを作った。印刷された言葉が、世論を作り、歴史を動かす。その力を最初に示した本の一つである。

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