旅券の規格
概要
身分証明の書状は古くからある。しかし十九世紀のヨーロッパは、鉄道と自由貿易のもとで、旅券をむしろ廃止する方向へ動いていた。第一次大戦が、それを逆転させる。スパイと脱走兵と敵国人を選り分けるため、各国が旅券と査証を導入した。戦後も戻らなかった。1920年、国際連盟がパリで会議を開き、大きさ、頁数、記載事項、写真、そして仏語併記を定める。国籍が、国境を越えるための条件になった。持たない者は、動けなくなった。
場所
48.86°N 2.35°E · フランス
本文
旅人の身元を保証し、安全に通してくれるよう頼む書状は、古くからある。旧約聖書の『ネヘミヤ記』では、ペルシア王アルタクセルクセスに仕えるネヘミヤが、ユダへ帰る道中を通してもらうため、川向こうの総督たちに宛てた王の手紙を求めている。旅券のもっとも古い例としてしばしば引かれる場面である。中世ヨーロッパには通行を保証する安導状があり、イスラーム世界には異教徒の身の安全を保証するアマーンがあった。中国には関所を通るための過所があり、唐の時代にこれを持たずに国境を越えた玄奘の西域行は、密出国だった。日本の江戸時代には、箱根の関所を通るための手形があった。
ただし、これらはどれも、特定の人に特定の誰かが与える一回ごとの許可だった。国民の誰もが持ち、身分と国籍を示す冊子とは性格が違う。
意外なことに、十九世紀のヨーロッパでは、旅券はむしろ廃れていく方向にあった。鉄道と蒸気船が人を大量に運ぶようになり、人と物の移動を妨げるべきではないという自由貿易の考え方が広がった。フランスは1861年に旅券の提示の求めを事実上やめ、ほかの国々も続いた。イギリスはもともと入国に旅券を求めていなかった。十九世紀後半のヨーロッパでは、多くの国境を旅券なしで越えることができたのである。作家シュテファン・ツヴァイクは回想録『昨日の世界』で、1914年より前には旅券など持たずにインドやアメリカまで旅をしたと懐かしんでいる。例外はロシアとオスマン帝国で、旅券を厳しく管理するこの二国は、むしろ時代遅れとみなされていた。
1914年、第一次世界大戦がすべてをひっくり返した。どの国も、敵のスパイ、脱走兵、敵国人を見分けなければならず、兵役を逃れて国外へ出ようとする者を止めなければならなかった。各国は次々に旅券と査証を求めるようになった。イギリスでは1914年に国籍と外国人の身分を定める法律ができ、翌年には写真を貼った一枚の紙を折りたたむ形の旅券が作られた(顔を貼る)。顔の形や額、目の大きさを書き込む人相の欄があり、自分の顔をこう書かれるのは屈辱だという苦情も出た。

戦争が終わっても、旅券の制度は元に戻らなかった。革命が起きたロシアからは大量の亡命者が流れ出し、オスマン帝国とハプスブルク帝国が崩れて、ヨーロッパの国境はあちこちで引き直された。戦後の不況の中で、どの国も自国民の仕事を守るために、よそ者の出入りを見張りたがった。とはいえ国ごとに形も大きさも書き方も違う書類では、国境の役人も旅人も困る。
そこで、発足したばかりの国際連盟の発足が動いた。1920年10月、連盟はパリで旅券と税関の手続き、国際列車の通し切符について話し合う会議を開いた。この会議が旅券の形を定めた。大きさは縦十五・五センチ、横十センチ五ミリ、三十二ページの冊子とする。それまでの一枚の紙を綴じた冊子にしたのは、査証の判を押すページを確保するためである。表記は発行国の言葉に加えて、当時の外交の言葉であるフランス語を併記する。写真を貼り、姓名や生年月日、出生地、国籍、職業などを書く。人相を文章で書く欄は、その後しだいに姿を消していった。1926年と1927年にも会議が開かれ、細かな点が詰められた。
これによって、国籍が国境を越えるための条件になった。旅券とは、ある国が「この者はわが国民である」と保証する書類である。保証してくれる国のない者は、どこへも動けない。ソヴィエト政府は1921年、国外に逃れた亡命者たちの国籍を奪った。オスマン帝国の崩壊の中で故郷を失ったアルメニアの人々もいた。旅券を持てない人は数百万人にのぼったと推定されている。この人々のために、1922年、国際連盟の難民高等弁務官フリチョフ・ナンセンが、国ではなく国際機関が発行する身分証明書を作った(ナンセン・パスポート)。五十を超える国がこれを認め、画家シャガールや作曲家ストラヴィンスキー、ラフマニノフをはじめ、無名の数十万の人々がこの書類で国境を越えた。

ツヴァイク自身もまた、旅券に翻弄された一人だった。ナチスの台頭を避けて1934年にオーストリアからイギリスへ移り、ドイツがオーストリアを併合した後、オーストリアの旅券は意味を失った。イギリスでは一時、敵国人として扱われ、のちにイギリス国籍を得たが、1940年にはアメリカを経てブラジルへ移った。1942年、彼はブラジルのペトロポリスで妻とともに命を絶った。かつて旅券を見たこともなかった世代の作家は、国籍と書類が人の運命を決める時代の中で生を終えた。
百年後のいま、世界のほぼすべての国の旅券は、パリの会議の流れをくむ同じような大きさと構造を持っている。いまの規格を決めているのは国際民間航空機関で、写真のページの下には機械で読み取るための二行の文字列が印刷され、多くの旅券には顔の情報を収めた半導体の記録装置が埋め込まれている。
そして旅券は平等ではない。査証なしで何か国へ行けるかを比べた指数が毎年発表され、上位の国の旅券は百数十か国へ自由に入れるのに、下位の国では数十か国にとどまる。日本やシンガポールの旅券がいつも上位に並び、内戦や紛争の続く国の旅券が下位に並ぶ。どこで生まれたかが移動の自由を決め、そしてそれは本人には選べない。1920年のパリで決まった一冊の小さな冊子は、国境の手続きを便利にしただけでなく、人が国に属していることを、旅に出るたびに確かめる仕組みを世界に定着させた。