できごと

ギュルハネ勅令(タンジマート)

Edict of Gülhane
AD1839年11月3日
重要度 5
ギュルハネ勅令(タンジマート)に関わる図版:Ottoman Parliament 1877
Ottoman Parliament 1877 Wikimedia Commons The Graphic · Public domain

概要

トプカプ宮殿の薔薇の園で、外相レシト・パシャが、16歳の新スルタンの名で読んだ。全臣民の生命・名誉・財産の保障、宗教を問わず法の前の平等、公正な徴税と徴兵、裁判なしの処刑の禁止。「再編成」。ヨーロッパの列強に見せるための、ヨーロッパ式の国家。1876年の憲法まで。

場所

コンスタンティノープル
41.01°N 28.98°E · トルコ・イスタンブール

本文

1839年11月3日、イスタンブールのトプカプ宮殿の外苑にある「ギュルハネ(薔薇の家)」と呼ばれる庭で、一つの勅書が読み上げられた。読んだのは外務大臣ムスタファ・レシト・パシャ。勅書は、即位してまもない16歳のスルタン、アブデュルメジト1世の名で出されたもので、帝国のすべての臣民に、生命と名誉と財産の安全を約束し、宗教にかかわらず等しく法を適用すると宣言していた。オスマン帝国の大改革の時代「タンジマート(再編成)」は、この日に始まったとされる。

そのとき帝国は、存亡の危機にあった。かつてヨーロッパを震え上がらせたオスマン帝国は、18世紀からロシアやオーストリアとの戦争に負け続け、領土を削られていた。1820年代にはギリシア独立戦争でギリシアが離れていった。さらに深刻だったのは、名目上は帝国の一部であるエジプトの総督ムハンマド・アリーの台頭である。彼はヨーロッパ式の軍隊と工場を作ってエジプトを強国に変え、1830年代には主君であるスルタンに刃を向けて、シリアを奪った。

先代のスルタンマフムト2世は、この危機に改革で立ち向かおうとした。1826年には、反乱を繰り返して改革を妨げてきた古い常備軍イェニチェリを武力で廃止し(イェニチェリの廃止)、ヨーロッパ式の軍隊を作り、服装の改革や役所の整理を進めた。だがムハンマド・アリーとの戦いには勝てなかった。1839年6月、シリアの北のニジプで、オスマン軍はエジプト軍に大敗した。その知らせが都に届く前の7月1日、マフムト2世は病で死んだ。さらに追い打ちをかけるように、オスマン艦隊の司令官が艦隊を丸ごと率いてエジプト側に寝返った。陸軍は敗れ、海軍は消え、玉座には16歳の少年がいた。帝国はこのまま崩れるかもしれなかった。

イェニチェリの廃止に関わる図版:Welt-Galleria T085
イェニチェリの廃止Wikimedia Commons Christoph Weigel the Elder / Caspar Luyken · Public domain

帝国が生き延びるには、ヨーロッパの大国、とりわけイギリスの助けが欠かせなかった。そのために動いたのが、レシト・パシャだった。若くして外交官としてパリとロンドンに駐在し、ヨーロッパの政治と思想を間近に見てきた彼は、帝国を法と秩序のある近代の国家に作り変えることこそが、生き残りの道だと考えていた。改革を約束すれば、ヨーロッパの国々に、オスマン帝国はヨーロッパの国家の仲間として支えるに値すると示すこともできる。勅書はこうした計算のもとに準備され、マフムト2世も生前にその方向を認めていたと言われる。

読み上げの場には、スルタンと大臣たち、イスラームの学者たちに加えて、ギリシア正教とアルメニア教会の総主教、ユダヤ教のラビ、そしてヨーロッパ各国の大使たちが並んでいた。勅書は、帝国が過去150年ほどのあいだに衰えたのは、イスラームの聖なる法と国の法を守らなかったからだ、と述べることから始まる。そして、新しい法の制度によって国を立て直すとして、いくつかの約束を並べた。すべての臣民の生命、名誉、財産を保障すること。税を公正に定め、個人に徴税を請け負わせて私腹を肥やさせる仕組みを改めること。兵役を公正にし、それまで事実上終身だった兵役の期間を限ること。公開の裁判を経ずに人を処刑することや、罪人の財産を没収して家族を苦しめることをやめること。そしてこれらの約束を、ムスリムであるかどうかを問わず、すべての臣民に等しく及ぼすこと。

勅令起草のイニシアティブをとったムスタファ・レシト・パシャ
勅令起草のイニシアティブをとったムスタファ・レシト・パシャWikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

この勅書は、宗教ごとに異なる共同体を作って暮らしてきた帝国の原理に、大きな変化をもたらすものだった。それまでのオスマン帝国では、キリスト教徒やユダヤ教徒は、税を納める代わりに信仰と自治を認められる庇護民として、ムスリムとは異なる立場に置かれていた。勅書は、宗教の違いを超えて、すべての者がスルタンの等しい臣民だという考えを打ち出したのである。

勅書のあと、改革は数十年にわたって続いた。1840年には新しい刑法が作られ、1850年にはフランスの法をもとにした商法が定められた。1858年には土地の所有を整理する法律ができ、1860年代には地方の行政の仕組みが作り直された。宗教の学校とは別に、役人や軍人を育てる世俗の学校が次々に開かれ、1868年にはフランス語で教えるガラタサライの高等学校が生まれた。電信が引かれ、郵便が整えられ、銀行が作られ、鉄道も敷かれ始めた。

1856年には、クリミア戦争でイギリスとフランスに助けられた直後に、さらに踏み込んだ「改革勅令」が出された。非ムスリムが官職に就き、軍の学校に入ることを認め、宗教による差別をはっきり禁じた。ここでは、宗教の違いを超えて「オスマン人」という一つの国民を作ろうとする考えが前面に出ていた。

クリミア戦争に関わる図版:William Simpson - Attack on the Malakoff
クリミア戦争Wikimedia Commons William Simpson, artist (1823-1899) E[dmond]. Morin, lithographer (1824 - 1882), working for "Day & Son, lithrs. to the · Public domain

しかし、改革は誰をも満足させたわけではなかった。多くのムスリムは、これまで下に置かれていたキリスト教徒と対等にされることに強く反発し、改革を異教徒のヨーロッパに押しつけられたものとみなした。一方、帝国内のキリスト教徒の多くは、オスマン人としての平等よりも、自分たちの民族の独立を望むようになっていった。セルビア、ルーマニア、ブルガリアと、バルカンの民族は次々に帝国から離れていく。改革の費用はかさみ、帝国はヨーロッパからの借金に頼り、1870年代にはついに財政が破綻した。

改革を内側から批判したのが、「新オスマン人」と呼ばれる若い知識人たちだった。詩人ナームク・ケマルらは、タンジマートは官僚が上から進める改革にすぎず、スルタンや大臣の力を縛る憲法も議会もないと訴えた。その声は1876年、改革派の大宰相ミドハト・パシャのもとで、帝国で初めての憲法として実を結ぶ。だが新しいスルタンのアブデュルハミト2世は、翌々年、ロシアとの戦争を理由に議会を閉じ、憲法を止めてしまった。タンジマートの時代は、ここで終わったとされる。

現在のギュルハネ公園(イスタンブル、トプカプ宮殿)
現在のギュルハネ公園(イスタンブル、トプカプ宮殿)Wikimedia Commons Gryffindor · Public domain

それでも、タンジマートが残したものは大きかった。世俗の学校で学んだ官僚や軍人たちは、やがて青年トルコ革命で憲法を復活させ、第一次世界大戦の敗北のあとには、その中からケマル・アタテュルクが現れて、トルコ共和国を作り上げる。共和国の世俗の法律、学校、官僚の組織は、ギュルハネの庭で始まった改革の長い延長の上にあった。上からの近代化で帝国を救おうとしたこの試みは、帝国そのものを救うことはできなかったが、帝国の後に来る国の骨組みを用意したのである。

動画(1)

185 オスマン帝国の改革 世界史20話プロジェクト第19話Historia Mundi ムンディ先生高校の世界史を200講で通す講義の第185講「オスマン帝国の改革」

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