概要
トプカプ宮殿の薔薇の園で、外相レシト・パシャが、16歳の新スルタンの名で読んだ。全臣民の生命・名誉・財産の保障、宗教を問わず法の前の平等、公正な徴税と徴兵、裁判なしの処刑の禁止。「再編成」。ヨーロッパの列強に見せるための、ヨーロッパ式の国家。1876年の憲法まで。
場所
41.01°N 28.98°E · トルコ・イスタンブール
本文
1839年6月、ニジプでオスマン軍がエジプト軍に大敗し、7月1日、マフムト2世が死んだ。アブデュルメジト1世は16歳。艦隊が丸ごとエジプトに寝返った。帝国は終わるかもしれなかった。
ムスタファ・レシト・パシャ(39歳、パリとロンドンの大使を務め、外相)は、イギリスの支持を得るために、そしてオスマンを「ヨーロッパの国」として認めさせるために、改革の宣言を用意していた。マフムトは死ぬ前に承認していた、と言う。
11月3日、トプカプ宮殿の下、ギュルハネ(薔薇の家)の園。スルタン、大臣、ウラマー、ギリシア正教とアルメニアの総主教、ユダヤのラビ、外国の大使、市民。レシトが読んだ。
「150年、帝国は法を守らなかったので衰えた。新しい法を作る」。(1)全臣民の生命、名誉、財産の保障。(2)公正な徴税(徴税請負の廃止)。(3)公正な徴兵(期間を4〜5年に)。(4)裁判なしの処刑の禁止、公開裁判。(5)「ムスリムであれ、他の宗教の民であれ、区別なく」。財産の没収の禁止。
「ハッティ・シェリーフ(尊い勅書)」。「タンジマート(再編成)」の始まり。1839年から1876年。
刑法(1840年)、商法(1850年、フランスの)、州の再編(1864年)、土地法(1858年)、教育(世俗の学校。ガラタサライ・リセ、1868年)、イスタンブール大学(1846年構想)、オスマン銀行(1856年)、郵便、電信、鉄道。1856年、改革勅令(イスラハト・フェルマーヌ)。クリミア戦争のあと、パリ条約の条件として。非ムスリムの平等を、より明確に。「オスマン人(オスマンル)」という国民。
ムスリムの多くは、非ムスリムと平等になることに怒った。非ムスリムの多くは、平等より民族の独立を求めた(ギリシア、セルビア、ルーマニア、ブルガリア)。「新オスマン人」(ナームク・ケマル)は、タンジマートが上からの改革で、憲法がないことを批判した。1876年、ミドハト・パシャの憲法。翌年、アブデュルハミト2世が止めた。
トルコ共和国の世俗の法と学校と官僚は、タンジマートの続き。