ウイスキーと酒税
概要
1644年、スコットランド議会が蒸留酒に課税した。以後180年、山中の密造と、徴税吏との追いかけっこが続いた。夜に焚くので月光酒と呼ばれた。1823年の酒税法が、免許料を下げ、合法の蒸留を現実的な選択にした。密造者が次々に免許を取った。同時に、この時期に定まったものがある。連続式蒸留機による大量生産と、樽での熟成である。空いたシェリー樽を使ったところ、色と香りが付いた。偶然が、この酒の定義になった。
場所
57.45°N -3.20°E · イギリス・スコットランド
本文
スコットランドのウイスキーについての最初の記録は、1494年の王室の財務記録にある一行とされる。修道士ジョン・コーに、王の命令で、アクアヴィテ(生命の水)を作るための麦芽8ボルを渡す、というものだ。8ボルはかなりの量の麦芽で、すでにそれなりの規模で蒸留が行われていたことがうかがえる。生命の水は、スコットランドのゲール語でウシュケ・ベーハと言った。これがなまって、ウイスキーという語になった。酒を熱して立ちのぼる蒸気を冷やし、濃い酒精を取り出す蒸留の技は、中世にイスラーム世界からヨーロッパへ伝わったもので(蒸留とアランビク)、修道院や医者が薬として作ることから始まった。
1644年、スコットランド議会は、内戦の戦費をまかなうため、蒸留酒に物品税をかけた。以後180年近くにわたって、山の中の密造と、税を取り立てる役人との追いかけっこが続く。とりわけ1707年にイングランドと合同してから(イングランドとスコットランドの合同)は、税は重くなる一方で、ハイランドの農民は税をくぐって酒を作ることを当たり前の生業としていた。

密造は、ハイランドの谷や島の、人目につかない場所で行われた。小さな蒸留器を岩陰や洞穴に据え、煙が見えにくい夜に火を焚く。月明かりの下で作る酒は、月光酒(ムーンシャイン)と呼ばれた。この言葉はのちにアメリカで、アパラチアの山中の密造酒を指して広く使われるようになり、禁酒法の時代にはさらに広まった。燃料には泥炭(ピート)が使われた。ハイランドには木が乏しく、泥炭ならどこを掘っても出てくる。麦芽を乾かすときに泥炭を焚けば、その煙の香りが麦芽に移る。スコッチの特徴とされるピートの香りは、燃料が泥炭しかなかった土地の事情から生まれた。
徴税の役人はゲージャーと呼ばれた。役人が近づけば合図が回り、酒と道具は隠される。土地の者は口を割らない。地主もしばしば見て見ぬふりをした。小作人が密造で稼いだ金から地代を払っていたからである。密造は罪であると同時に、共同体の慣わしでもあった。1820年代の初めには、スコットランドで年に1万件を超える密造の摘発があったと記録されている。捕まったのがその数であり、実際の密造ははるかに多かった。

流れを変えたのが、1823年の酒税法である。政府は取り締まりの強化ではなく、合法の蒸留を割に合うものにする道を選んだ。蒸留の免許料を年10ポンドと大幅に下げ、税の取り方も改め、一定の大きさ以上の蒸留器を持つ者に免許を与えた。この法律は、ハイランドの大地主ゴードン公爵らが議会で後押ししたものだった。密造をやめさせ、合法の蒸留から税を取るほうが得だと考えたのである。
密造者たちは次々に免許を取った。スペイ川の流域、グレンリベットのジョージ・スミスは、この地域でいち早く免許を取った一人である。かつての仲間からは裏切り者と見なされ、蒸留所を焼き払うと脅された。彼は身を守るために二丁の拳銃をいつも持ち歩いていたと伝えられる。法の施行のあと、合法の蒸留所の数は数年のうちに大きく増え、密造の摘発は急に減っていった。
同じ頃、ウイスキーの作り方そのものも変わりつつあった。1830年、アイルランドの元徴税役人イーニアス・カフェが、連続式の蒸留機の特許を取った。それ以前にロバート・スタインが似た装置を作っていたが、実用に耐える形にしたのはカフェだった。昔ながらの単式蒸留器(ポットスチル)は、一回ごとに仕込み、蒸留し、空にして洗い、また仕込む。手間がかかり、量も限られる。連続式の蒸留機は止まらない。原料の液を注ぎ続け、酒精を取り出し続ける。安く大量に作れ、度数が高く、くせの少ない酒ができる。これで穀物から作るのがグレーン・ウイスキーである。
1860年の法律で、税を払う前の倉庫で異なるウイスキーを混ぜることが認められると、エディンバラのアンドリュー・アッシャーらが、風味の強いモルト・ウイスキーと軽いグレーン・ウイスキーを混ぜたブレンデッド・ウイスキーを売り出した。飲みやすく、安く、品質がそろった酒は、イングランドやその先の市場でよく売れた。いまも世界に知られるブレンドの銘柄の多くが、19世紀の後半に生まれている。

時代も味方した。1860年代から、アメリカから入り込んだ害虫フィロキセラ(ブドウネアブラムシ)がフランスのブドウ畑を次々に枯らしていった。ワインが作れなければ、ブランデーも作れない。それまでイギリスの紳士が食後に口にする蒸留酒はブランデーだったが、その空いた席にスコッチが入り込んだ。この偶然がスコッチの世界での地位を決めた、としばしば指摘される。
ウイスキーを決定づけたもう一つの要素も、偶然から生まれた。樽での熟成である。樽はもともと酒を運び、しまっておくための入れ物で、味を付けるためのものではなかった。ところが、酒を樽に入れて長く置くと、色が付き、香りが増し、角が取れる。19世紀のイギリスはスペインから大量のシェリーを樽で輸入しており、空いたシェリー樽が安く手に入った。それに詰めたウイスキーは、琥珀の色と甘い香りをまとった。いまスコッチ・ウイスキーと名乗るには、スコットランドで、700リットル以下のオークの樽で、最低3年熟成させることが法律で定められている。偶然の工夫が、法律の定義になったのである。
20世紀の後半になると、シェリーの消費が減り、シェリー樽は手に入りにくくなった。代わりに主流になったのが、アメリカのバーボンの空き樽である。アメリカの法律では、バーボンは内側を焦がした新しいオーク樽で熟成させなければならず、一度使った樽が大量に余る。それが海を渡ってスコットランドへ運ばれる。二つの国の法律の違いが、樽の流れを作っている。
スコッチはいまや、イギリスの食品と飲料の輸出で最大の品目になり、輸出額は年に50億から60億ポンドほどにのぼる。その技術は日本にも渡った。1918年、竹鶴政孝がスコットランドに渡り、グラスゴーで化学を学びながら蒸留所で実地に修業した。彼の書き残したノートは、日本のウイスキーの出発点になった。竹鶴はスコットランド人のリタと結婚して帰国し、鳥井信治郎が1923年に建設を始めた山崎の蒸溜所の立ち上げに加わった。1934年には独立して北海道の余市に蒸溜所を開く。気候や湿り気、近くで泥炭が採れることが、スコットランドに似ていたからだと言われる。
21世紀に入ると、日本のウイスキーは国際的な賞を次々に取り、注文が殺到した。だが熟成には時間がかかる。20年物を売るには、20年前に仕込んでおかなければならない。供給が追いつかず、年数を表示した銘柄の多くが販売を休んだ。待つことでしか作れない酒であることは、この産業の逃れられない条件である。月光の下の密造から始まった酒は、時間そのものを売る商品になった。