トルデシリャス条約

概要
大西洋に一本の線を引き、東をポルトガル、西をスペインと決めた。住んでいる人には誰も相談していない。
場所
41.51°N -5.00°E · スペイン・バリャドリッド県
本文
15世紀、イベリア半島の二つの王国、ポルトガルとカスティーリャ(のちのスペイン)は、海の向こうの土地をめぐって争っていた。ポルトガルはアフリカの西岸を南へ下りながら、金や奴隷の取り引きの拠点を築いていた(喜望峰の回航)。1479年、両国は条約を結び、大西洋のカナリア諸島はカスティーリャのもの、それより南の海と土地はポルトガルのもの、と取り決めた。
1492年、カスティーリャのイサベル1世の援助を受けたコロンブスが、大西洋を西へ渡り、カリブの島々に着いた(コロンブスの到達)。翌年の帰り道、嵐に遭ったコロンブスはリスボンに立ち寄り、ポルトガル王ジョアン2世に航海のことを話した。ジョアン2世は、見つかった土地は前の条約によってポルトガルのものだ、と主張した。

カスティーリャは、ローマ教皇に頼った。教皇アレクサンデル6世はスペイン出身で、カスティーリャの王と近かった。1493年、教皇は勅書を出し、大西洋のアゾレス諸島とカーボヴェルデ諸島の西100レグア(1レグアは5キロ半から6キロほど)に南北の線を引き、その西で見つかる土地はカスティーリャのものとした。この線では、ポルトガルのアフリカ航路の船が西へ大きく回り込むと、カスティーリャの海に入ってしまう。
ジョアン2世は、教皇を通さずにカスティーリャと直接交渉した。両国の使節はカスティーリャの町トルデシリャスに集まり、1494年6月7日、条約に署名した。線をカーボヴェルデ諸島の西370レグアまで動かし、その東をポルトガル、西をスペインとする、という内容である。線はおよそ西経46度から49度のあたりにあたるとされるが、どの島から測るのか、1レグアを何キロとするのかがはっきりせず、正確な位置は当時から争いの種になった。

この線が動いたことで、6年後に思わぬ結果が出た。1500年、インドへ向かうポルトガルの艦隊を率いたカブラルが、大西洋を大きく西へ回るうちに、南アメリカの岸に着いた(カブラルのブラジル到達)。そこは線の東側だった。いまのブラジルがポルトガル語を話す国なのは、この線の位置のためである。ポルトガルがこの土地のあることをあらかじめ知っていて線を動かさせたのだ、という説もあるが、それを示す確かな記録は無い。
条約は、地球の反対側をどう分けるかを決めていなかった。ポルトガルが東回りでインドに着き(ヴァスコ・ダ・ガマのインド航路)、スペインが西回りで太平洋を渡ると(マゼランの太平洋横断)、香辛料の産地モルッカ諸島がどちらの側に入るかで両国は争った。1529年、もう一本の線を引く条約が結ばれ、モルッカはポルトガル側とされた。フィリピンは本来ポルトガル側にあたるはずだったが、スペインはのちにそこを植民地にした。

この取り決めに縛られたのは、署名した二つの国だけだった。フランス、イギリス、オランダは、海は誰のものでもない、と考え、後からアメリカやアジアへ乗り出していった。フランス王フランソワ1世は、世界を二国で分けると定めたアダムの遺言を見せてほしい、と皮肉ったと伝えられる。
そして何より、線の向こうに住む人々には、誰も相談していない。アメリカ大陸には何千万という人々が暮らし、インカやアステカのような大きな国もあった(インカ帝国の滅亡)。地球を二つの国で分けてよいという考えが、この時代のヨーロッパでは成り立った。南アメリカでは、その後ポルトガル系の入植者たちが奴隷や金を求めて内陸へ進み、線をはるかに越えて土地を広げていった。1750年、両国は新しい条約を結び、実際に住んでいる者の土地とする考えで境を引き直した。いまのブラジルが南アメリカの半分近くを占める広い国なのは、このためである。トルデシリャスの線は、こうして役目を終えた。条約の原本は、いまスペインとポルトガルの文書館に一通ずつ残されている。