南海泡沫事件
概要
南海会社は国債を引き受けて、スペイン領アメリカとの貿易の独占を約束された。貿易はほとんどなかった。株は1月の128ポンドから6月末に1000ポンドを超えた。「誰も知らない事業のための会社」まで生まれた。9月に崩れた。ニュートンが2万ポンド失った。「天体の動きは計算できるが、人の狂気は計算できない」。大臣が獄に入り、ウォルポールが収拾して、最初の首相になった。
場所
51.51°N -0.13°E · イギリス・イングランド
関わった人(1)
アイザック・ニュートンAD1643年–AD1727年 · 失った本文
18世紀の初め、イギリスは戦争の借金に苦しんでいた。スペイン継承戦争の戦費のため、政府は利子の高い国債を次々に出し、その利払いが財政を圧迫していた。この借金を株に変えてしまおう、という発想から生まれたのが南海会社である。
1711年、トーリー党の大蔵卿ロバート・ハーリーが会社を作った。国債の持ち主は、手持ちの国債を南海会社の株に換える。政府は会社に利子を払い続けるが、利率は下がる。その見返りとして、会社は南海、つまりスペイン領の中南米との貿易の独占権を与えられた。1713年のユトレヒト条約で、スペインはイギリスに、アフリカの奴隷を植民地へ運ぶ独占権(アシエント)と、年に一隻だけ商船を送る権利を認め、南海会社がそれを引き受けた。

だが、貿易はふるわなかった。スペインは商売を厳しく制限し、1718年に両国が戦争になると、取引は止まった。会社の本当の商売は、海の向こうではなく、ロンドンの国債と株の操作にあった。
1719年から1720年にかけて、海峡の向こうのパリではジョン・ローのミシシッピ会社の株が熱狂の的になっていた(ミシシッピ会社のバブル)。南海会社はこれに倣う。1720年1月、会社は、残る国債のほぼすべて、およそ3100万ポンドを引き受けるという案を議会に出した。仕組みはこうである。国債を株に換えるときの割合は、株の時価で決まる。株の値段が高ければ高いほど、会社は少ない株で国債を引き受けられ、余った株を市場で売って利益にできる。会社にとっては、株価を吊り上げることそのものが事業になった。案を通すため、会社は大臣や議員、王の愛人たちに、代金を払わずに株を渡した。値上がりすれば、その差額がそのまま懐に入る。4月、議会は案を通した。

株価は面白いように上がった。1月に128ポンドほどだった株は、3月に300ポンドを超え、5月に500ポンド台、6月の終わりには1000ポンドを超えた。会社は買いやすいように分割払いを許し、株を担保に金を貸して、さらに株を買わせた。貴族も商人も、地方の地主も牧師も、召使いや女性も、株を買った。ロンドンの取引の中心だったエクスチェンジ・アレーの路地は、人で身動きがとれなかったという。
熱狂は南海会社だけにとどまらなかった。この年、株を売り出す怪しげな計画が次々に現れた。海水から真水を作る、永久に回る車輪を作る、といった類いである。中には、大きな利益を生む事業を行うが、それが何であるかは誰にも明かさない、という会社まであったと伝えられる。申し込みの金を集めた発起人がその日のうちに姿を消した、という話も添えられているが、どこまで本当かは分からない。6月、議会は国王の特許の無い会社を禁じる法(泡沫会社法)を通した。表向きは詐欺の取り締まりだが、資金を奪い合う競争相手を消したい南海会社の後押しがあったとされる。

夏が過ぎると、潮目が変わった。8月、会社の重役たちが株を売り抜けているという噂が流れ、借金で株を買っていた人々が売りに回った。9月、株価は崩れ、月末には200ポンドを割り込んだ。年末には120ポンド台に戻っていた。一年のうちに、熱狂のすべてが消えた。
損をした人の中に、アイザック・ニュートンがいた。造幣局長官だった彼は、春に株を売って利益を得たが、その後も上がり続けるのを見て、高値で買い直し、2万ポンドを失ったと伝えられる。天体の動きは計算できるが、人々の狂気は計算できない、という彼の言葉は有名だが、確かな出典は無く、後の時代に伝わった話である。
破産と自殺が相次いだ。怒りは政府と会社に向かい、議会は調査委員会を作った。会社の帳簿を握っていた会計係ロバート・ナイトは、大陸へ逃げた。株を受け取っていた大蔵大臣ジョン・エイズラビーは議員を追われてロンドン塔に送られ、重役たちの財産は没収されて被害者への補償に回された。国務大臣のジェームズ・クラッグズは調査のさなかに天然痘で死に、その父で郵政長官だった同名のクラッグズも、ひと月ほどあとに急死した。自ら命を絶ったのではないかと噂された。
後始末を引き受けたのが、ホイッグ党のロバート・ウォルポールである。彼は会社の処理を穏便に進め、王の周辺や有力者の関与が表に出すぎないように守った。批判者は彼を「隠し事の総元締め」と皮肉った。1721年、ウォルポールは第一大蔵卿となり、内閣を率いた。この地位はやがて首相と呼ばれるようになり、彼は1742年まで20年余りその座にいた。イギリスの議院内閣制の慣行は、この泡の後片付けの中から形をとっていった。
南海会社そのものは潰れなかった。国債を抱えた会社として生き残り、奴隷貿易の権利を1750年に手放したあとも存続して、1853年に解散している。泡沫会社法は1825年まで残り、そのあいだイギリスでは株式会社を作ることが難しくなった。泡(バブル)という言葉が、中身の無い熱狂を指して金融で使われるようになったのも、この年からである。
画家のウィリアム・ホガースは、1721年に『南海計画』と題した風刺の版画を描いた。回転木馬に群がる人々、車輪にくくり付けられた「誠実」、鞭打たれる「名誉」。値上がりが値上がりを呼ぶ相場の仕組みも、その後の崩れ方も、80年ほど前のオランダのチューリップ・バブルによく似ており、その後の世界でも何度も繰り返されることになる。