世界人権宣言

概要
二つの大戦とホロコーストのあとで、国連総会が48か国の賛成、反対なしで採択した。拷問の禁止、奴隷の禁止、法の前の平等。守られない国は多いが、基準はここで書かれた。
場所
48.86°N 2.35°E · フランス
本文
第二次世界大戦が終わったとき、国家が自国民に何をしてもよいわけではない、という考えはまだ国際法の中に無かった。どう扱うかはそれぞれの国の内政とされていた。ホロコーストは、ドイツという国家が自分の国の法律に沿って、自国民と占領地の人びとを殺した出来事だった。1945年に作られた国際連合の成立の憲章は「人権」という言葉を何度も使ったが、その中身を定めてはいなかった。
中身を書く仕事は、1946年に経済社会理事会の下に置かれた人権委員会に託された。議長には、亡くなったばかりのフランクリン・ルーズベルト大統領の妻、エレノア・ルーズベルトが選ばれた。副議長は中国の外交官で劇作家でもあった張彭春、報告者はレバノンの哲学者シャルル・マリク。国連事務局の人権部長だったカナダの法学者ジョン・ハンフリーが、世界各国の憲法や権利の宣言を集めて最初の草案を作り、フランスの法律家ルネ・カサンがそれを前文と条文の体系に組み直した。

起草の場は、言葉と思想のすり合わせの連続だった。張彭春は儒学の考えを持ち込み、人は理性だけでなく、他人を思いやる心を持つと主張した。第1条に「理性と良心」とあるのは、その主張が反映された結果とされる。インドのハンサ・メータは、すべての「人(men)」とあった表現を、すべての「人間(human beings)」に改めさせたと伝えられる。ソ連の代表は労働や社会保障の権利を強く求め、西側の代表は表現や信仰の自由を重く見た。サウジアラビアは、結婚の自由と宗教を変える自由を定めた条文に反対した。
1948年12月10日、パリのシャイヨ宮で開かれた第3回国連総会が、この宣言を採択した。賛成48、反対0、棄権8。棄権したのはソ連と、国連に別の議席を持っていたウクライナと白ロシア、ポーランド、チェコスロバキア、ユーゴスラビアの東側の国々、そして南アフリカとサウジアラビアだった。南アフリカでは、この年に人種隔離を掲げる政権が生まれたばかりだった。当時の加盟国は58か国で、敗戦国の日本やドイツはまだ国連に入っていない。

宣言は前文と30条からなる。第1条は、すべての人間は生まれながらにして自由であり、尊厳と権利について平等である、と書く。続く条文が、差別の禁止、生命と自由と身体の安全、奴隷と拷問の禁止、法の前の平等、恣意的な逮捕の禁止、公正な裁判と無罪の推定、移動と庇護を求める権利、国籍を持つ権利、結婚の自由、財産、思想と良心と宗教の自由、表現と集会の自由、政治に参加する権利を並べる。後半は、社会保障、働く権利と同じ労働に同じ賃金、休息と余暇、十分な生活水準、教育、文化に参加する権利になる。自由を守る権利と、暮らしを支える権利を、一つの文書に並べたことが特徴だった。
前文は、人権の無視と軽侮が、人類の良心を踏みにじる野蛮な行為を生んだ、と書く。直前の戦争と虐殺を念頭に置いた言葉である。1789年のフランスの人権宣言が「人間と市民」の権利を掲げたのに対し、この宣言は名前に「世界」を冠した。国家どうしの取り決めではなく、どこに住む人にも当てはまる基準だという意味を込めたものだった。

宣言は条約ではなく、総会の決議にとどまる。守らなくても罰はない。法的な拘束力を持つ条約にする作業は、冷戦の対立の中で長く進まず、1966年にようやく二つの国際人権規約が採択され、発効は1976年になった。それでも宣言そのものの影響は大きかった。第二次大戦後に独立したアジアやアフリカの国々の憲法の多くが、その条文を取り込んでいる。難民の保護(国連難民高等弁務官事務所と難民条約)、人種差別の撤廃、女性や子どもの権利といった後の条約も、この宣言を土台にして作られた。12月10日は「人権デー」とされ、宣言は500を超える言語に訳されて、世界で最も多く翻訳された文書の一つになっている。
西洋の価値観を押しつける文書だ、という批判は採択の時からあり、今も繰り返される。起草した側も最初からそれを意識していた。委員会には中国、レバノン、インド、チリ、フィリピンなどの代表が加わり、条文の多くは各地の憲法や宗教の伝統と照らし合わせて書かれた。それでも、宣言の普遍性を受け入れない立場は消えていない。

カサンはこの仕事などで1968年にノーベル平和賞を受けた。エレノア・ルーズベルトは、宣言を「全人類のためのマグナ・カルタ」になりうるものだと演説で語っている。
ピンカーの物語「『暴力の人類史』で読む歴史」は、この宣言を、戦後に続いた「権利革命」の起点に置く。人種差別の撤廃(公民権法)、女性、子ども、性的少数者の権利へと、守られるべき人の範囲が広がっていった流れの最初の一歩という位置づけになる。守られない国が多いことは、本も認めている。拷問も、恣意的な拘束も、宣言の後もなくならなかった。それでも、何が許されないかの基準が書かれたことで、それを破った国を名指しして責める言葉ができた。基準が書かれたことと、守られることは別になる。前者がなければ、後者を求めることもできない。