できごと

山城国一揆

Yamashiro Uprising
AD1485年12月
重要度 4
シベリアの諸集団白帳ハン国明チベットパガン朝アユタヤ朝日本朝鮮王朝スコータイ朝大越大越アイヌモシリAD1485年12月山城(南山城)
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1485年12月の版図を描いています(12勢力)。

概要

畠山の二つの軍が南山城で睨み合っていた。国人と農民が集まって「両軍とも出て行け」。出て行った。36人の月行事で8年自治した。「下剋上の至り」と公家が書いた。守護の兵を追い出したのは、この国では初めて。

場所

山城(南山城)
34.75°N 135.80°E · 京都府南部

本文

1467年に始まった応仁の乱の発端の一つは、管領を出す名門畠山家の跡継ぎ争いだった。畠山政長と畠山義就のいとこ同士が、それぞれ東軍と西軍についた。1477年に大乱そのものが終わっても、二人の争いは止まらなかった。京の南、宇治川と木津川の流れる南山城(いまの京都府南部)は、両軍がにらみ合う戦場になった。

1485年の秋、政長と義就の軍は南山城で陣を構えて向かい合い、2か月以上も動かなかった。兵は村々から食糧を取り立て、人を人夫に駆り出し、田畑を荒らした。村には逃げ場が無かった。

16世紀の挿絵に描かれた侍
16世紀の挿絵に描かれた侍Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

この土地には、国人と呼ばれる地元の武士たちがいた。守護や大名の家臣になりながら、自分の村と土地に根を下ろした小さな領主である。その下には、村ごとにまとまって暮らす農民たち、土民がいた。1485年12月11日、南山城の国人たちが集会を開いた。上は60歳から、下は15、16歳まで、と記録は伝える。国中の土民も群れ集まった。

集まった人々は、三つの要求を決めた。畠山の両軍は山城から出て行くこと。寺社や公家の荘園は元の持ち主に返すこと。新しく関所を作らないこと。国人たちは、これを両軍に突きつけた。従わなければ、国中が敵に回る。12月17日、両軍は兵を引いた。一戦も交えずに、地元の人々の力が大名の軍を追い出したのである。

この出来事を書き留めたのは、奈良の興福寺の大乗院の門跡だった尋尊である。尋尊は日記『大乗院寺社雑事記』に、国人たちの集会のことを記し、両陣の扱いを定めるためだという、もっともなことか、と書いたうえで、ただしまた下極上の至りである、と付け加えた。下の者が上の者に打ち勝つ「下剋上」の世を、名門の僧が驚きと戸惑いをもって見つめた言葉である。

翌1486年2月13日、国人たちは藤原頼通の建てた平等院鳳凰堂のある宇治の平等院に集まり、国の掟を定めた。三十六人衆と呼ばれる国人の代表が国を治め、毎月交代で月行事と呼ばれる当番が政務にあたる。守護の支配を受けずに、年貢の一部を自分たちで取り立て、裁判も行った。この自治は8年あまり続く。教科書では「山城の国一揆」と呼ばれる。

平等院鳳凰堂に関わる図版:Phoenix Hall in Byodo-in Temple, Ujirenge Uji city 2026
平等院鳳凰堂Wikimedia Commons Tomio344456 · CC0

国人たちが自治に踏み切った背景には、南山城の地の利もあった。京と奈良を結ぶ道が通り、宇治川と木津川の水運で物が行き交う豊かな土地で、国人たちは荘園の代官や年貢の請負で力をつけていた。村々の農民も、村ごとに寄り合いを開き、用水や入会地を自分たちで管理する「惣」と呼ばれる結びつきを育てていた。上からの支配が崩れたとき、下から国を治める仕組みを作るだけの経験が、すでに地元に蓄えられていたのである。借金の帳消しを求めて一時的に立ち上がる正長の土一揆のような土一揆と違い、国一揆は、国の支配そのものを地元の人々が握ったところに新しさがあった。

だが、自治は長くは続かなかった。1493年、細川政元が将軍を替える政変を起こし、幕府は伊勢貞陸を山城の守護に任じる。国人たちの中には守護に従う者と拒む者が出て、まとまりは崩れた。抵抗した者たちは、南山城の稲屋妻城に立てこもったが、攻め落とされた。国一揆は、外から倒されたというより、内側から割れて終わった。

山城の国一揆は、戦国時代の入り口で起きた、一つの可能性を示す出来事だった。その3年後の1488年には、加賀で一向宗の門徒たちが守護を倒し、およそ100年にわたって国を治める(加賀の一向一揆)。下からの力が国を動かす時代が来ていた。ただ、その力をまとめ上げて新しい支配を作ったのは、最終的には国人たちを家臣に組み込んだ戦国大名だった。国一揆の掟の文書そのものは残っておらず、その姿は、ほぼ尋尊の日記を通して知られている。

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