人物

トマス・ペイン

Thomas Paine
AD1737年2月9日 – AD1809年6月8日(享年72)
アメリカ合衆国重要度 3

概要

イギリスのコルセット職人が、37歳でアメリカに渡って『コモン・センス』を書いた。フランス革命では国民公会の議員になり、王の処刑に反対して投獄された。

所属

アメリカ合衆国

関わったできごと(2)

アメリカ独立宣言AD1776年7月4日 · その半年前に独立を説いた『コモン・センス』AD1776年1月10日 · 著者

本文

トマス・ペインは1737年2月9日、イングランド東部のセットフォードに生まれた。父はクエーカー教徒で、女性の下着のコルセットを作る職人だった。地元の学校には13歳まで通ったが、それ以上の教育は受けられず、父の仕事を継いだ。

トマス・ペインの肖像
トマス・ペインの肖像Wikimedia Commons Auguste Millière / After George Romney / After William Sharp · Public domain

若いころのペインは、何をやってもうまくいかなかった。コルセット職人の店を開いては畳み、一時は私掠船に乗り組み、教師をし、酒や煙草に課税する物品税の徴税官になったが、職務の怠慢を咎められて一度は免職された。最初の妻とは結婚の翌年に死別し、二度目の結婚も破綻した。

南部の町ルイスで徴税官をしていたころ、ペインは町の討論の会で弁が立つことで知られるようになった。1772年、徴税官の給料の引き上げを議会に求める文書を書き、仲間のためにロンドンで働きかけた。運動は実らず、1774年、ペインは職を失い、店も借金で手放した。

トマス・ペインの肖像、ダボ画
トマス・ペインの肖像、ダボ画Wikimedia Commons Laurent Dabos · Public domain

その頃ロンドンで、アメリカの植民地の代表として滞在していたベンジャミン・フランクリンと知り合った。フランクリンは37歳のペインに紹介状を書き、新しい土地でやり直すよう勧めた。1774年の秋、ペインはフィラデルフィアに着いた。船の上で熱病にかかり、担がれて上陸したという。

フィラデルフィアで雑誌の編集の仕事を得たペインは、植民地とイギリス本国の対立のただなかに身を置くことになった。1775年4月にはレキシントン・コンコードの戦いで武力衝突が起きた。それでも多くの植民地の人びとは、まだ国王への忠誠を口にし、本国との和解を望んでいた。

1776年1月、ペインは匿名で小冊子『コモン・センス』を出した(『コモン・センス』)。小さな島が大陸を永遠に支配するのは道理に合わない。王という制度そのものがばかげている。世襲の王を戴く理由はどこにもない。ペインはこれを、学者の言葉ではなく、聖書のたとえと素朴な常識の言葉で書いた。冊子は酒場や集会で読み上げられ、数か月で数十万部が出回ったとも言われる。数字には誇張が含まれるとみられるが、それまでのどの出版物より広く読まれたことは確かである。半年後の7月、大陸会議はアメリカ独立宣言を採択した。

『コモン・センス』に関わる図版:Commonsense
『コモン・センス』Wikimedia Commons Scanned by uploader, originally by Thomas Paine. · Public domain

独立戦争が始まると、ペインは兵として軍に加わった。1776年の暮れ、大陸軍は負け続け、兵は逃げ出していた。ペインは野営の火のそばで『アメリカの危機』の第1号を書いた。これは人の魂を試す時代である、という一文で始まる文章で、ジョージ・ワシントンは12月、デラウェア川を渡ってトレントンを奇襲する前に、それを兵たちに読み聞かせさせたと伝えられる。

独立後、ペインは鉄の橋の設計に打ち込み、その売り込みのために1787年、ヨーロッパへ戻った。2年後、フランス革命が始まった。イギリスの政治家エドマンド・バークが革命を激しく批判する本を出すと、ペインは反論として『人間の権利』を書いた。人は生まれながらに等しい権利を持ち、いかなる世代も後の世代を縛る権利は無い。貧しい人への年金や教育の費用を、税でまかなうべきだという提案まで含んでいた。この本はイギリスで大いに売れ、政府はペインを扇動の罪で訴えた。

フランス革命に関わる図版:Anonymous - Prise de la Bastille
フランス革命Wikimedia Commons Unidentified painter · Public domain

ペインはすでにフランスへ渡っていた。1792年、フランスの国民公会の議員に選ばれる。フランス語はほとんど話せなかった。翌年、国王の裁判では、王の処刑に反対し、王をアメリカへ追放すべきだと訴えた。王政を否定することと、王を殺すことは別だ、という立場だった。国王は処刑され(ルイ16世の処刑)、ペインはジャコバン派に疑われるようになった。

1793年の暮れ、ペインは逮捕され、リュクサンブールの牢に入れられた。逮捕の直前に書き上げていたのが、『理性の時代』である。神を信じることは否定しないが、教会と聖書の奇跡を理性で批判する内容だった。牢では、処刑される者の部屋の扉に白墨で印が付けられた。ペインの部屋の扉は開いたまま内側に印が付けられ、閉めると印が隠れたため見逃された、と本人が後に書いている。1794年11月、恐怖政治が終わったあと(恐怖政治)、アメリカの公使モンローの働きで釈放された。

恐怖政治に関わる図版:Octobre 1793, supplice de 9 émigrés
恐怖政治Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

1802年、ペインはアメリカに戻った。だが『理性の時代』のせいで、かつての英雄は無神論者として嫌われていた。ワシントンを公開の手紙で非難したことも、人びとの反感を買っていた。晩年は貧しく、酒に溺れているという噂も流された。1809年6月8日、ニューヨークで死んだ。72歳だった。クエーカーの墓地への埋葬は断られ、葬儀に集まったのは、記録によれば6人ほどだった。10年後、ペインを崇拝したイギリスのジャーナリストが遺骨を掘り出して本国へ運んだが、その骨はやがて行方が分からなくなった。

王を否定し、人間の権利を説き、教会を批判した。アメリカとフランスの二つの革命に言葉を与えたペインの文章は、20世紀になって改めて評価され、アメリカ建国の父の一人に数えられるようになった。

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