概要
1905年の革命のあと、首相ストルイピンは「まず鎮圧、それから改革」で臨んだ。軍法会議の絞首台は「ストルイピンのネクタイ」と呼ばれた。同時に、農民が共同体(ミール)を出て自分の土地を持てるようにした。「強い者に賭ける」。「20年の平穏をくれれば、ロシアを変える」。1911年、キエフの劇場で、皇帝の見ている前で撃たれた。6年後、革命。
場所
59.93°N 30.36°E · ロシア
関わった人(1)
ピョートル・ストルイピンAD1862年4月14日–AD1911年9月18日 · 改革した本文
1906年、1905年革命の後。農村では地主の館が焼かれ(1905〜06年で3000件以上)、テロで役人が殺され(1905〜07年で9000人以上が死傷)、第1ドゥーマは土地の強制買収を要求して解散させられた。
ピョートル・ストルイピン。サラトフ県知事のとき、暴動の村に護衛なしで入って説得した、と伝わる。1906年4月、内相。7月、首相。44歳。
「鎮圧」。1906年8月、彼の別荘(アプテカルスキー島)が爆破された。27人が死に、娘は両脚を潰され、息子も負傷した。1週間後、軍法会議の法令。テロと武装強盗を、48時間以内に、非公開で裁き、24時間以内に執行する。8か月で1100人以上(統計で1102〜1144人)が絞首刑。絞首縄は「ストルイピンのネクタイ」と呼ばれた(カデットの議員ロディチェフが議会で言い、ストルイピンが決闘を申し込んだ。ロディチェフが謝罪した)。囚人の護送車は「ストルイピンの車両」。
「改革」。1906年11月9日の法令、1910年と1911年の法律。農民が、共同体(ミール)を出て、自分の割り当て地を私有地として登記し、散らばった帯状の地条をまとめて一区画にする(オートルプ、フートル)ことを認めた。農民銀行が土地を買って売り、シベリアへの移住を助けた(1906〜13年に300万人以上が移住した)。
「私たちは、酔った者と弱い者でなく、強い者と、しっかりした者に賭ける」。「国に必要なのは、大変動ではなく、偉大なロシアだ。あなたたちが望むのは大変動だ。我々が望むのは、偉大なロシアだ」(1907年、第2ドゥーマでの演説)。
1907年6月3日、第2ドゥーマを解散して、選挙法を勝手に変えた(地主の票を重くした)。「六三体制」。憲法違反だったが、第3ドゥーマは任期を全うした。
成果。1915年までに、約200万世帯が共同体を出た(全体の4分の1ほど)。穀物の生産は増え、輸出も増えた。ただし、多くの農民は共同体を出なかった(相互扶助と、危険の分散のために)。改革は途中で止まった。
1911年9月14日(グレゴリオ暦18日)、キエフのオペラ座。『皇帝サルタンの物語』。皇帝ニコライ2世と娘たちが桟敷にいた。第2幕の休憩、ドミトリー・ボグロフ(革命家で、秘密警察の情報提供者。どちらの側で撃ったのか、いまも分からない)が、通路を歩いてきて、至近から2発。ストルイピンは制服の胸を血に染めて、皇帝の桟敷に向かって十字を切って、椅子に落ちた。4日後に死んだ。ボグロフは10日後に絞首刑。
「私に20年の平穏をくれれば、あなたたちはロシアが分からなくなるだろう」(1909年の新聞のインタビュー。よく「20年の内外の平穏をくれれば、今のロシアが分からなくなる」の形で引かれる)。
6年後、革命。ソ連は彼を「反動」とし、1990年代からロシアで「強い改革者」として復権した。2012年、モスクワの政府庁舎の前に銅像が立った。