概要
サマセットの法律家の子。オックスフォード、医学。シャフツベリ伯の医者で秘書。伯の肝臓の膿瘍を手術して助けた。伯が失脚して、1683年、オランダへ。1689年、名誉革命でメアリと同じ船で帰った。『人間知性論』(心は白紙。経験が書く)、『統治二論』、『寛容書簡』、『教育論』。カロライナ憲法を起草し、奴隷貿易の会社の株を持った。72歳。「自由主義の父」。
関わったできごと(2)
名誉革命と権利章典1688年 · 同じ船で帰ったロック『統治二論』AD1689年 · 書いた本文
1632年8月29日、サマセットのリントン。父ジョンは弁護士と小地主で、内戦で議会軍の騎兵の大尉。清教徒。ウェストミンスター・スクール(1647年。1649年1月30日、王が処刑された日、学校は近かった)。オックスフォード、クライスト・チャーチ(1652年〜)。スコラ哲学を嫌い、デカルトを読んで「哲学は読めるものだと知った」。医学(ボイル、シデナムと)。学位は取らなかった。1666年、アントニー・アシュリー・クーパー(後のシャフツベリ伯、チャールズ2世の大臣)が薬用水のためにオックスフォードに来て、ロックに会って、ロンドンに連れて行った。
1668年、シャフツベリの肝臓の膿瘍を、ロックが手術で(銀の管で排出。管は生涯、体に残った)。「私の命を救った」。シャフツベリの秘書。1669年、カロライナ基本憲法の起草(世襲貴族と、奴隷制を含む)。王立アフリカ会社(奴隷貿易)の株主。1670年代、通商植民地委員会の書記。1675〜79年、フランス(モンペリエ、パリ。健康のため。ガッサンディ派に会った)。シャフツベリはホイッグの指導者で、排斥危機(1679〜81年)の中心。1682年、シャフツベリはオランダへ逃げて、翌年死んだ。1683年、ライハウス陰謀。9月、ロックはオランダへ。
オランダ、5年半。アムステルダム、ユトレヒト、ロッテルダム。偽名(ヴァン・デル・リンデン博士)。イングランド政府は引き渡しを求めた。ここで『人間知性論』を書き上げ、『寛容書簡』を書いた(ラテン語、1689年、ハウダで匿名出版)。フィリップ・ファン・リンボルフ(レモンストラント派の神学者)が友人。
1689年2月12日、メアリの船で帰った。ウィリアムがプロイセン大使の職を提案して、断った(「ビールしか飲めない国は無理だ」)。控訴審の委員(年200ポンド)。1689年12月、『人間知性論』(名前で。心は「白紙(タブラ・ラサ)」で、生得観念はなく、経験(感覚と反省)が観念を書く。「自分の理解の範囲を測る」)。同じ年、『統治二論』と『寛容書簡』(匿名)。1693年、『教育に関する考察』(クラーク家の息子のための手紙から。体を鍛え、理性で、罰でなく。子供の本『イソップ』。1000年後もこの本の通り、と言われるほど読まれた)。1695年、『キリスト教の合理性』。貨幣論(1695年、銀貨の改鋳で、ニュートンと)。1696〜1700年、通商植民地局の委員(貧民の労働、アイルランドの毛織物)。
1691年から、エセックスのオーツ、フランシス・マシャム卿とダマリス夫人(カドワースの娘、哲学者、ロックの友人)の家で暮らした。喘息。1704年10月28日、ダマリスが詩篇を読んでいる間に、椅子で死んだ。72歳。ハイ・レイヴァーの教会。「私が学問で何か価値のあることをしたかは、私の著作が答える」。
奴隷貿易の会社の株を持ち、カロライナ憲法に「自由市民は、その黒人奴隷に対して絶対的な権力と権威を持つ」と書いた人が、『統治二論』の冒頭で「奴隷制は、人間にとって、極めて卑しく、惨めな状態であり、我が国の高潔な気質と勇気に極めて反するものである」と書いた。矛盾を、ロックがどう考えていたかは分からない。