シャクシャイン
概要
交易の条件をめぐって蜂起したアイヌの首長。和睦の席で謀殺された。
関わったできごと(1)
シャクシャインの戦いAD1669年 · 当人本文
生まれた年は分からない。17世紀の半ば、北海道の太平洋側、シブチャリ(いまの新ひだか町静内)を拠点としたメナシクルと呼ばれる集団の首長だった。最初は副首長で、前の首長が殺されたあとに跡を継いだとされる。彼について分かっていることは、ほとんどすべて、戦いのあとに和人の側が書き残した記録による。松前藩の記録のほか、出兵を命じられた弘前藩(津軽家)が集めた聞き書きが残っていて、戦いの経過はそれらからたどられている。アイヌの側の言葉で書かれた記録は無い。
当時の蝦夷地では、松前藩が和人とアイヌの交易を独占していた。藩は家臣に、アイヌと交易する場所(商場)を知行として分け与えた。アイヌは自分たちの好きな相手と好きな条件で取引することができなくなり、決められた和人の船とだけ交換するようになる。その交換の比率が、一方的に不利に変えられていった。一説に、干し鮭の束と引き換えに受け取る米一俵の量が、二斗から七、八升にまで減らされたとされる。砂金掘りや鷹狩りのための和人が奥地へ入り込み、川の漁場を荒らすことへの不満も積もっていた。
もう一つの背景が、アイヌの集団どうしの争いだ。シブチャリの川筋の漁や猟の場をめぐって、メナシクルと西隣のシュムクルの集団は長く争っていた。松前藩は何度か仲裁に入ったが、争いは収まらなかった。1668年、シャクシャインはシュムクルの首長オニビシを討った。シュムクル側は松前藩に武器の援助を求めて使者を送ったが、使者は帰り道に病(天然痘とされる)で死んだ。ところが「松前藩に毒殺された」という噂が広がる。
1669年6月、シャクシャインはこの噂を受けて、蝦夷地の東西のアイヌに、和人と戦うよう呼びかけた。それまで争っていた集団も含めて、太平洋側から日本海側まで広い範囲で、ほぼ同時に立ち上がった。各地で交易に来ていた和人の船や、鷹匠・金掘りが襲われ、数百人が殺されたと記録されている(シャクシャインの戦い)。
松前藩は幕府に急を知らせた。幕府は弘前藩などに出兵の用意を命じ、松前藩の一門の者を指揮に送った。アイヌの軍勢は松前を目指して南へ進み、国縫(いまの長万部町)で藩の軍とぶつかった。藩の側の鉄砲の前に押し返され、シャクシャインはシブチャリへ退く。戦いは数か月に及んだ。
その年の秋、藩は和睦を持ちかけた。シャクシャインは新冠のピポクに設けられた和睦の席に出向いた。その酒宴の席で、藩の者に謀殺された。シブチャリの砦は焼かれ、ほかの首長たちも殺されるか降伏した。和睦の場で相手を討つという手口は、和人の側の記録自体が隠していない。
以後、アイヌは松前藩への従属を深める。各地の首長は、藩に背かないことを誓う起請文を出させられた。18世紀に入ると、交易の場は和人の商人が請け負う形(場所請負制)に移り、商人が漁場を経営して、アイヌがその労働力として使われるようになる。シャクシャインの戦いは、アイヌが大きな規模でまとまって和人に立ち向かった最後の戦いになった。その120年後の1789年には、国後島と対岸の目梨で、もう一度蜂起が起きている。
明治に入ると、蝦夷地は北海道と名を変えて開拓の地とされ、1899年の北海道旧土人保護法のもとで、アイヌは同化を迫られた。シャクシャインの名は長く、和人の記録のなかの「反乱の首長」として残った。20世紀の後半になって、アイヌの権利の回復を求める動きのなかで、彼は土地と暮らしを守ろうとした人物として読み直されていく。静内の真歌の丘には、1970年に建てられた彼の像が立ち、いまもその前で、彼を悼む儀式が毎年行われている(アイヌモシリ)。