ウィーン会議
概要
ナポレオン後の秩序を大国で決めた。この枠組みが約100年、ヨーロッパの大戦争を抑える。
場所
48.21°N 16.37°E · オーストリア
関わった人(1)
メッテルニヒAD1773年5月15日–AD1859年6月11日 · 仕切った本文
1789年のフランス革命から四半世紀、ヨーロッパは戦争に明け暮れた。革命のフランスは王を処刑して近隣の国々と戦い、続くナポレオン・ボナパルトは大陸のほとんどを支配下に置いた。神聖ローマ帝国は消え、多くの王家が国を追われ、国境は何度も引き直された。1812年のロシア遠征が失敗に終わると、ロシア、プロイセン、オーストリア、イギリスなどの連合軍がフランスを追い詰め、1814年4月、ナポレオンは退位してエルバ島に流された。
残された問題は、ばらばらになったヨーロッパをどう組み立て直すかだった。1814年9月から、各国の代表がオーストリアの都ウィーンに集まった。皇帝や国王、諸侯から小さな国の使節まで、200を超える国や団体が代表を送ったが、実際に物事を決めたのは、ごく少数の大国だった。

議長役を務めたのは、オーストリアの外相メッテルニヒである。イギリスからは外相カースルレー、ロシアからは皇帝アレクサンドル1世自身、プロイセンからは宰相ハルデンベルクが乗り込んだ。そして敗れたフランスからは、革命期からナポレオン時代を通じて外交の表舞台にいたタレーランが来た。
タレーランは、敗戦国の代表という弱い立場を、言葉の力で覆した。戦争の相手は革命とナポレオンであって、正統な王家に戻ったフランスではない。そうであれば、革命の前の正統な王家と国境を回復するという「正統主義」こそが、新しい秩序の原則であるべきだ、と主張したのである。フランスはやがて、大国の中核の協議に加わることになる。

会議はなかなか進まなかった。最大の対立は、ポーランドとザクセンをめぐるものだった。ロシアはポーランドのほぼ全土を自分のものにしようとし、プロイセンは、ナポレオンに味方したザクセン王国をまるごと手に入れたいと望んだ。オーストリアとイギリスは、ロシアとプロイセンが強くなりすぎることを恐れた。1815年1月、オーストリア、イギリス、フランスの3国はひそかに軍事同盟を結び、戦争も辞さない構えを見せた。最後は妥協が成り、ポーランドの大半はロシア皇帝が王を兼ねる王国となり、プロイセンはザクセンの5分の2と、ライン川沿いの豊かな土地を得た。
交渉の合間には、連日のように舞踏会や晩餐会が開かれた。「会議は踊る、されど進まず」という言葉は、会議に集まった老貴族の一人が口にしたものと伝えられる。華やかな宴の陰で、各国の警察は互いの代表の動きを探り、大事な取り決めの多くは、公式の会議ではなく、非公式の場での大国どうしの取引で決まった。
1815年3月、ナポレオンがエルバ島を抜け出してフランスに上陸したという知らせが、ウィーンに届いた。各国は対立を棚上げにして再び手を結び、会議は急いで取りまとめに向かった。6月9日に最終の議定書が調印され、その9日後、ナポレオンはワーテルローの戦いで最終的に敗れた。
新しい地図では、フランスを囲む国々が強められた。オランダは南のベルギーを合わせた王国となり、プロイセンはライン地方を得て西で国境を接し、スイスは永世中立を認められた。オーストリアは北イタリアのロンバルディアとヴェネツィアを手に入れた。ドイツには、オーストリアを議長とする39の国の緩やかな連合が作られた。北欧ではノルウェーがデンマークからスウェーデンに移され、イギリスはマルタやケープ植民地など、海の道の要所を手に入れた。会議ではまた、奴隷貿易を非難する宣言が出され、外交官の席次の決まりや、国際河川の航行のルールも定められた。
秩序を保つ仕組みも作られた。アレクサンドル1世の呼びかけで、君主たちがキリスト教の精神で結ばれるという神聖同盟が結ばれ、イギリス、ロシア、プロイセン、オーストリアは四国同盟を結んで、問題が起きるたびに会議を開いて調整することにした。のちに「ヨーロッパの協調」と呼ばれる仕組みである。

この秩序は、自由主義と国民の統一を求める動きを押さえ込むことでも保たれた。メッテルニヒは、ドイツの大学で高まった学生たちの運動をカールスバート決議で取り締まり、各地の革命を大国の軍で抑えた。一つの民族が一つの国を持つべきだという考えも、身分にかかわらず政治に参加できるべきだという考えも、会議の地図には反映されていなかった。
その押さえ込みは、やがて限界に達した。1848年革命でメッテルニヒ自身が国を追われ、クリミア戦争では大国どうしが戦った。続くイタリア統一とドイツ帝国の成立で、ウィーンで引かれた地図は大きく書き換えられた。それでも、ナポレオン戦争の後、ヨーロッパの大国がすべて巻き込まれる全面戦争は、1914年の第一次世界大戦まで100年近く起きなかった。勝者が敗者を秩序の中に取り込み、大国どうしの力の釣り合いで平和を保つというウィーンのやり方は、評価が分かれながらも、のちの国際秩序を考える際の一つの手本として、繰り返し振り返られている。