ボツワナの独立
概要
独立時は世界で最も貧しい国の一つで、舗装道路は十数kmしかなかった。以後半世紀、クーデターも独裁も無く、アフリカで最も長く成長が続いた。
場所
-24.63°N 25.92°E · ボツワナ
関わった人(1)
セレツェ・カーマAD1921年7月1日–AD1980年7月13日 · 初代大統領本文
アフリカ南部の内陸、カラハリ砂漠が国土の大半を占める土地に、ツワナの人びとの首長国がいくつも並んでいた。19世紀の終わり、北からはセシル・ローズの南アフリカ会社が、東からはボーア人の国が、この土地をうかがっていた。1895年、カーマ3世ら三人の首長は自らロンドンへ渡り、各地で演説して世論に訴え、ローズの会社の支配下に入れられることを防いで、イギリス本国の保護領にとどまることを認めさせた。ベチュアナランド保護領である。
イギリスはこの保護領にほとんど手をかけなかった。行政の中心は領内にすらなく、南アフリカの町マフェキングに置かれていた。首長たちの統治はそのまま残され、学校は宣教団に任され、男たちの多くは南アフリカの鉱山へ出稼ぎに行った。いずれ南アフリカ連邦に組み込まれるだろうと、多くの人が考えていた。

独立運動を率いたセレツェ・カーマは、ンワト人の王家に生まれ、4歳で首長の位を継ぐ立場になった。叔父が摂政を務めるあいだに、南アフリカの大学で学び、イギリスのオックスフォード大学に留学して法律を修めた。1948年、ロンドンで白人のイギリス人女性ルース・ウィリアムズと結婚する。これが大問題になった。ちょうどその年、南アフリカでは人種隔離を掲げる政権が成立したばかりで、隣の保護領で黒人の首長が白人の妻を迎えることを強く嫌った。南アフリカの金とウランを必要としていたイギリス政府はその圧力に屈し、1951年、セレツェを故郷から追放した。セレツェが首長の座を退くことを条件に、夫妻が帰国を許されたのは1956年のことだった。
帰国したセレツェは、首長としてではなく一人の政治家として政党を作った。1965年の選挙で勝ち、翌1966年9月30日、ボツワナは独立した。首都には、それまで小さな村だったガボローネが選ばれ、新しい町が急いで建てられた。このとき国の舗装道路は十数キロ、大学を出た国民は数十人とされ、輸出できるのは牛くらいしかなかった。一人あたりの所得で見て、世界で最も貧しい国の一つだった。

独立の翌年、中部のオラパでダイヤモンドの大きな鉱脈が見つかった。のちにもっと豊かなジュワネングの鉱山も開かれ、ボツワナは世界有数のダイヤモンドの産地になる。アフリカの多くの国で、地下の資源は独裁者と軍と外国企業を太らせ、内戦の火種になった。ボツワナでは違った。セレツェの政府はちょうどこのころ、部族の土地の地下の資源の権利を、その部族ではなく国に移す法を通した。オラパはセレツェ自身の出身のンワト人の土地にあったが、その利益は国庫に入った。政府は鉱山会社と粘り強く交渉して、合弁の会社で利益の半分を持つようにし、その収入を道路と学校と診療所に回した。
政治の面でも、ボツワナはアフリカの例外であり続けた。1966年から5年ごとに選挙が行われ、クーデターも内戦も一度も起きていない。セレツェは1980年に在任のまま病で死んだが、権力は憲法の定めどおり副大統領に引き継がれた。独立から30年あまり、ボツワナの経済の伸びは世界でも最も高い部類に入り、いまでは中所得国の一つに数えられる。

アセモグルとロビンソンの『国家はなぜ衰退するのか』は、ボツワナを、植民地時代から受け継いだ悪い循環を断ち切った国の例として取り上げた(物語「『国家はなぜ衰退するのか』で読む歴史」)。彼らはその理由を、首長が村の集会(コトラ)で人びとの意見を聞く伝統、植民地支配が浅かったために古い制度が壊されなかったこと、そしてセレツェら独立の指導者たちの選択に求めている。
もちろん、問題がないわけではない。1990年代から2000年代にかけて、エイズの流行がボツワナを襲い、大人の4人に1人近くが感染して平均寿命が大きく下がった。政府はアフリカでいち早く治療薬を無償で配る政策をとった。経済はダイヤモンドに頼りすぎていて、格差も大きく、カラハリの狩猟採集の人びとの立ち退きも国際的な批判を受けた。独立以来ずっと政権を握ってきたセレツェの政党は、2024年の選挙で初めて敗れ、政権は平穏に野党へ移った。それもまた、この国の制度が生きていることのしるしと受け止められた。

ボツワナの独立は、南のアパルトヘイト(アパルトヘイトの終結)と東の白人支配のローデシア(ローデシアの一方的独立宣言)にはさまれた中での出来事だった。人種の違う夫婦が国の最初の大統領夫妻になったこと自体が、隣の国々への静かな答えでもあった。