メイソン=ディクソン線
概要
ペンシルベニアとメリーランドの領主が八十年争った境界を、決着させるために、二人のイギリス人が呼ばれた。天文学者チャールズ・メイソンと測量士ジェレマイア・ディクソンは、星の位置から緯度を出し、西へ三百キロ以上、直線を刻んでいった。一マイルごとに石を据え、五マイルごとに紋章入りの石を置く。作業は先住民の案内人が同行し、彼らが「ここから先は行けない」と言った地点で止まった。地形とも川とも関係のない線である。それが後に、奴隷制のある側と無い側を分ける言葉になった。
場所
39.95°N -75.17°E · アメリカ合衆国・ペンシルベニア州
本文
メイソン=ディクソン線の始まりは、イギリスの王が同じ土地を二度与えてしまったことにある。1632年、チャールズ1世はボルティモア卿カルヴァート家にメリーランドの土地を与え、その北の境を北緯四十度とした。半世紀後の1681年、チャールズ2世はウィリアム・ペンにペンシルベニアを与え、その南の境をやはり北緯四十度のあたりとした。ところが当時の地図は不正確で、実際の北緯四十度は、ペンが建てたフィラデルフィアの町よりも北を通っていた。文字どおりに読めば、ペンシルベニアの首府がメリーランドの領分に入ってしまう。
両家の争いは八十年に及んだ。1730年代には、境界の近くに入植した人々が互いの土地を奪い合い、撃ち合いにまで発展した。メリーランド側の入植者の名をとってクレサップの戦争と呼ばれる。1738年に国王が停戦を命じ、1760年には両家のあいだで和解がまとまった。だが、それでは線は実際にどこを通るのかという問いに答えられる者は、植民地にはいなかった。

そこでロンドンから二人の専門家が呼ばれた。天文学者チャールズ・メイソン(1728〜1786年)は、グリニッジの王立天文台で助手を務めていた。測量士ジェレマイア・ディクソン(1733〜1779年)は、イングランド北部ダラムの炭鉱主の家に生まれ、数学と天文学に通じていた。クエーカーの家の出だったが、酒を好んだことなどから集会を除名されたと伝えられる。二人は1761年、太陽の前を金星が横切る現象を観測するため、ともに南アフリカの喜望峰へ派遣されたことがあり、組んで仕事をするのは二度目だった。1763年11月、二人はフィラデルフィアに着き、それから四年あまり測量を続けることになる。
緯度は星から求めた。真上を通る星が天頂からどれだけずれているかを、望遠鏡を鉛直に立てた天頂儀で測る。同じ星を幾晩も観測し、その平均をとる。まず二人は、フィラデルフィアの最南端から十五マイル南の地点の緯度を割り出し、これを東西の境とした。北緯三十九度四十三分あまりである。続いて、のちのデラウェアとメリーランドを分ける南北の線を引き、特許状に書かれていたニューカースルの町を中心とする半径十二マイルの円弧という奇妙な境界も、実地で確かめた。

それから二人は、西へ向かって線を延ばしていった。地球は丸いので、同じ緯度を保つ線は、まっすぐな直線ではなく、ゆるやかな曲線になる。二人は一定の距離を進むたびに星を測り直し、線を修正した。森を切り開いて見通しの道を作り、その中に線を通していく作業である。後の時代の測量と比べても、誤差はわずかなものにとどまっており、当時としては驚くほど精密な仕事だった。
線の上には、一マイルごとに石の標柱が据えられた。イングランドから船で運ばれた石灰岩で、北側の面にはペンシルベニアを示すP、南側の面にはメリーランドを示すMが刻まれた。五マイルごとには、片面にペン家、もう片面にカルヴァート家の紋章を彫った大きな標石が置かれた。こうした石の多くは、いまも畑の中や道端に残り、地元の人々による保存の活動が続いている。

線がどこで止まるかを決めたのは、測量士でも領主でもなかった。西の山地は先住民の土地であり、イロコイ連邦が通行を認め、モホークやオノンダガの人々を案内人として同行させていた。1767年10月、デラウェア川から二百三十マイルあまり西へ進んだところで、一行は先住民が南北に行き来する大きな戦の道に行き当たった。案内人たちは、ここから先へは進めないと告げた。測量はそこで打ち切られた。線の終わりを決めたのは、先住民の通行の許可の範囲だったのである。残りの区間は、独立後の1784年に別の測量隊が引き継いで引いた。
引かれたときのこの線は、二つの領主の家の私的な境界にすぎなかった。川とも山とも関係がなく、言葉や習慣の違いを分けるものでもない。星の位置だけで決まった一本の緯線である。だが、まもなく線には別の意味が載せられていく。1780年、ペンシルベニアは奴隷制を段階的に廃止する法を定め、メリーランドは奴隷を認める州のままだった。1820年のミズーリ協定をめぐる議論のころから、この線は奴隷制のある南と無い北を分ける境の象徴として語られるようになった。南部の奴隷にとって、この線を越えて北へ逃れることが一つの目標になり、逃亡を助ける人々の秘密の網は「地下鉄道」と呼ばれた。ただし、逃亡奴隷を元の持ち主に返させる連邦の法律があったため、線を越えても安全とは限らなかった。
やがて「メイソン=ディクソン線の南」という言い方は、アメリカの南部そのものを指すようになった。南部を指す「ディキシー」という呼び名の由来をディクソンの名に求める説もあるが確かではなく、ルイジアナで出回ったフランス語で十を意味する語を刷った紙幣に由来するという説など、いくつもの説がある。南北戦争では、この線そのものが戦線になったわけではない。境界の南にあったメリーランドは、奴隷州でありながら連邦にとどまった。それでも線は、南北の分断を表す言葉として繰り返し引かれ続けた。

線のほうが先にあり、意味は後から人が載せた。独立後のアメリカが西の土地に引いた六マイル四方の格子でも、同じことが起きる。まず測量が線を引き、その後でそこに社会ができていった。そしてメイソン=ディクソン線の場合、線をどこで止めるかを決めたのは、線を引く側ではなかった。その事実のほうは、線の名前ほどには語り継がれていない。