ルイスの戦いとシモン・ド・モンフォールの議会
概要
シモン・ド・モンフォールがヘンリー3世と王子エドワードを捕えた。翌年、州から騎士を、町から市民を呼んだ議会。「議会の父」。その半年後、イーヴシャムでエドワードに殺され、体を切られた。議会は残った。1295年、エドワードが同じ形で「模範議会」。
場所
50.87°N 0.01°E · イギリス
本文
イングランド王ヘンリー3世は、父ジョンの死を受けて1216年にわずか9歳で即位し、1272年まで56年にわたって位にあった。マグナ・カルタを認めさせられた父の跡を継いだ王である。成人した彼は信心深く、ウェストミンスター寺院の建て直しに熱を注いだが、政治の腕は乏しかった。南フランスから来た王妃の親族や、王の異父弟たちが宮廷で重く用いられ、イングランドの諸侯は「外国人」に国を牛耳られていると憤った。シチリアの王位を息子のために買おうとした無謀な約束で、教皇に巨額の借金を負ったことが、諸侯の我慢の限界を越えさせた。
1258年、諸侯は王にオックスフォード条項を認めさせた。15人の評議会が王の政治を見張り、年に三度の会議を開くという取り決めである。その先頭に立ったのがレスター伯シモン・ド・モンフォールだった。フランス生まれの貴族で、父は南フランスの異端を討つアルビジョワ十字軍を率いた同名の騎士である。イングランドに渡ってレスター伯の位を継ぎ、王の妹エリナーと結婚して、王の義弟になっていた。気性が激しく、一度決めた誓いは曲げない人だったと伝えられる。

1261年、ヘンリー3世は教皇から条項の誓いを解いてもらい、取り決めを捨てた。1263年に内戦が始まる。翌1264年1月、双方はフランス王ルイ9世に裁きを委ねたが、王の権威を重んじるルイは条項をすべて無効とした。シモンはこの裁定を受け入れず、戦いで決着をつけることにした。
1264年5月14日、両軍はイングランド南部サセックスのルイスでぶつかった。王の側には、王の長男エドワードと、王の弟でドイツ王に選ばれていたコーンウォール伯リチャードがいた。数では王の軍が上回っていたとされる。シモンは夜のうちに町の北の丘を押さえた。戦いが始まると、王子エドワードは騎兵を率いてシモンの側のロンドンの市民兵に襲いかかり、敗走する彼らを何キロも追っていった。その間に、丘から下ったシモンの本隊が王の中央を打ち破った。王は町の修道院に逃げ込み、リチャードは風車小屋に隠れて捕まり、のちに嘲りの歌にされた。追撃から戻ったエドワードが見たのは、すでに終わった戦場だった。

王と王子はシモンの手に落ち、シモンは王の名で国を治める事実上の支配者になった。1265年1月20日、ウェストミンスターに開かれた議会に、シモンは諸侯と聖職者だけでなく、各州から2人の騎士、そして選んだ町から2人ずつの市民を呼んだ。州の騎士を呼んだ前例はあったが、町の市民までが国の会議に呼ばれたのはこれが初めてだった。呼ばれた町はシモンの味方のところばかりで、自分の支配を固めるための議会でもあった。
シモンの天下は長く続かなかった。1265年5月、人質だったエドワードは馬の乗り比べをすると言って見張りを振り切り、逃げ出した。シモンの側にいたグロスター伯も王の側に寝返った。8月4日、ウスターシャーのイーヴシャムで、シモンの軍は激しい雷雨の中、エドワードの軍に囲まれた。迫ってくる敵の隊形を見たシモンは、あれは彼らが私から学んだやり方だ、と言ったと伝えられる。シモンは討たれ、遺体は首と手足を切り落とされた。人質として連れてこられていたヘンリー3世は、シモンの側の鎧を着せられていて味方に殺されかけ、自分はウィンチェスターのヘンリーだと叫んで命拾いしたという。

シモンの墓には奇跡が起きるとして人々が巡礼に訪れ、王の側は1266年の取り決めでこれを禁じた。だが彼の議会の形は消えなかった。王となったエドワード1世は、戦費を集めるために、1295年、諸侯と聖職者に加えて、州の騎士と町の市民を呼ぶ議会を開いた。召集状には、すべての人に関わることはすべての人に認められなければならない、というローマ法の言葉が引かれていた。のちに「模範議会」と呼ばれ、騎士と市民はやがて庶民院(下院)の柱になる。
シモン・ド・モンフォールは「議会の父」と呼ばれる。レスターの町には彼の名を冠した大学があり、時計塔には像が立つ。アメリカの下院の議場の壁にも、歴史上の立法者の一人として彼の横顔の浮き彫りが掛かっている。フランスから来た伯爵が、イングランドの議会の始まりに名を残したことになる。