
概要
力の強い者の思いのままだった裁きを、書かれた法と手続きで縛ってきた歴史。
この物語について
罪を犯したら、誰が、何に基づいて、どう裁くのか。王の気分でも、神の判じ物でもなく、書かれた法と決まった手続きで裁くという考えは、いつ、どうやってできてきたのか。
四千年前のメソポタミアの王たちは、法を石に刻んで人々の前に立てた。ローマは十二の板に法を書き出し、のちに千年分の法と学説を大全にまとめた。中国では商鞅が法で国を鍛え、日本は唐にならって律令を作った。だが長いあいだ、裁きの多くは、熱した鉄を握らせる神明裁判や、拷問で引き出した自白に頼っていた。
イングランドでは、王の力を法で縛るマグナ・カルタが結ばれ、陪審と人身保護の令状が、捕らえられた者を守る道具になった。啓蒙の時代、モンテスキューは権力を分けることを説き、ベッカリーアは拷問と死刑を理屈で退けた。合衆国の憲法は三つの権力を互いに抑え合わせ、裁判所は法律そのものを憲法に照らして無効にできるようになった。ナポレオン法典は、法の前の平等を世界に広めた。
それでも、法は差別も守った。奴隷は財産とされ、人種で人を分ける判決や法が出され、異端や魔女や思想が裁かれた。そのたびに、法廷で争い、判決を覆し、法を書き換えてきた人々がいた。
二度の世界大戦のあと、戦争を始め、人道に反する罪を犯した者を、国を超えて裁く法廷が作られた。日本でも、戦後の憲法のもとで、法律を憲法違反とする判決や、死刑囚の再審無罪、市民が加わる裁判が生まれた。
この物語は、力ある者の思いのままだった裁きを、書かれた法と公正な手続きで縛ろうとしてきた歩みを、その失敗も含めて並べたものになる。
この物語が起きた場所
筋(59)
年代順に並べてあります。役どころが書いてあるものは、なぜこの物語に含まれるかを添えました。
- ウル・ナンム法典できごとBC2100年頃現存する最古の法典現存する最古の法典。ハンムラビより300年早く、傷害は同害報復ではなく罰金で償わせている。ウル

- ハンムラビ法典できごとBC1754年頃石に刻んで立てた法282条を石碑に刻んで公開した。刑罰は身分によって差があり、目には目をの原則で知られる。バビロン
- 子産の刑鼎できごとBC536年刑法を鼎に鋳込んで公にする鄭の宰相が、刑法の条文を鼎に鋳て公開した。中国で法を書いて示した最初とされる。晋の叔向が「民が法を知れば争いを恐れなくなる」と手紙で責め、子産は「世を救うためだ」と返した。新鄭
- 十二表法できごとBC451年法を書き出して誰でも読めるように慣習法を成文にして公開した。ローマ法の出発点になる。ローマ
- ソクラテスの死できごとBC399年市民の法廷が下した死刑国家の神を認めず若者を惑わしたとして死刑になり、毒杯を仰いだ。アテナイ

- 商鞅の変法できごとBC356年法で国を鍛える身分ではなく功で報い、密告を奨励し、法を曲げなかった。秦が抜きん出る土台になる。咸陽
- 抽選器できごとBC4世紀くじで裁判員を選ぶアテナイの民主政では、役人の多くと裁判の陪審員を、選挙ではなくくじで選んだ。選挙をすれば、弁の立つ者や金のある者が勝つ。くじなら誰にでも順番が回る。法廷の朝には、石の板に名札を差す溝が縦横に並んだ抽選器が使われた。市民は自分の青銅の名札を溝に差し、脇の筒から黒と白の玉を一つずつ落として、白が出た列の者がその日の陪審員になる。誰がどの法廷に座るかは、朝まで誰にも分からない。買収する相手が、前もって決まらないのである。ただし戦争を率いる将軍だけは、くじではなく選挙で選んだ。アテナイ
- ローマ法大全できごとAD534年千年分のローマ法をまとめる千年分のローマ法を整理して一つにまとめた。中世以降のヨーロッパ法の土台になる。コンスタンティノープル
- 大宝律令できごとAD701年(大宝元年)唐にならった律令刑部親王と藤原不比等が唐の律令を手本に、律6巻、令11巻。二官八省、班田収授、租庸調、戸籍。年号「大宝」。日本が「日本」と名乗り、天皇が「天皇」と書かれ、法で国が動くようになった最初の年。律令そのものは残らず、養老令の注釈から復元されている。藤原京
- クラレンドン巡回裁判令できごとAD1166年巡回する王の裁判と陪審ヘンリー2世が、各地の12人の自由民に、地域で犯罪を犯した疑いのある者を国王の裁判官に申告させる仕組みを作った。告発する陪審である(裁く陪審になるのは後)。国王の巡回裁判官が全土を回り、同じ判断の基準を持ち帰る。地域ごとの慣習ではなく、王国に共通の法。「コモン・ロー」の語はここから来る。判例を積み上げて法とする体系が、この行政の都合から育った。クラレンドン
- マグナ・カルタできごとAD1215年6月15日王も法に従う王も法に従うと文書で認めさせた。立憲政治の遠い出発点とされる。ラニーミード

- 神明裁判の終わりできごとAD1215年神の判じ物をやめる被告に熱した鉄を握らせ、傷の治り方で有罪を決める。水に沈めて浮けば有罪。決闘で決める。中世ヨーロッパの裁判は、神が正しい者を守るという前提で成り立っていた。1215年の第4ラテラノ公会議が、聖職者がこの儀式に立ち会うことを禁じた。神の保証が消えた。代わりに、人が事実を認定しなければならなくなる。イングランドは陪審へ、大陸は職権による審理と自白の重視、そして拷問へ向かった。同じ年、マグナ・カルタが署名されている。ローマ
- 御成敗式目できごとAD1232年(貞永元年)武士の道理を法にする北条泰時が51か条の法を定めた。「道理」。武士の慣習を文字にした。女の相続、20年の占有、悪口の禁止。「京の人は笑うだろうが、これは文字を知らない者のための法」。それから600年、武家の法はここから始めた。鎌倉
- モンタイユーの異端審問できごと1318年村人の信仰を裁くピレネーの村の住民が、カタリ派の疑いで一人ずつ尋問された。その調書に、羊飼いの恋愛も、隣人の噂も、死後の世界の考えも残った。中世の村の暮らしを内側から読める、ほとんど唯一の史料になる。モンタイユー
- 刀狩令できごとAD1588年8月29日(天正16年7月8日)農民から刀、脇差、弓、槍、鉄砲を取り上げた。「集めた武器は方広寺の大仏の釘とかすがいにする。農民は来世まで救われる」。一揆を防ぎ、農民と武士を分けた。兵農分離。武器は完全には消えず、村には鉄砲が残った。ただ「農民は武器を持たない」という建前ができた。京都
- 武家諸法度できごとAD1615年8月30日(元和元年7月7日)大名を縛る法大坂の陣の2か月後、伏見城で秀忠の名で13か条。文武弓馬の道、城の修理は届け出、新しい城は禁止、無断の婚姻は禁止、大名の交際は禁止。金地院崇伝が起草した。同時に一国一城令で大名の城を一つに。1635年、家光が参勤交代を加えた。将軍が代わるたびに読み上げた。260年の大名統制の憲法。京都
- ガリレオの異端審問できごとAD1633年学説を裁く観測から出た結論を、教義の名で撤回させられた。それでも地球は動く、と伝えられる。ローマ

- 人身保護法できごとAD1679年理由なく閉じ込めない「身体を差し出せ」。人を拘束している者に対し、その人を裁判所に連れて来て、拘束の理由を示せと命じる令状。中世から存在したが、国王が無視すれば効かなかった。1679年の法律が、期限と罰則と手続きを定めて実効性を与えた。理由を示せない拘束は違法である。アメリカ合衆国憲法は、反乱や侵略のとき以外はこれを停止できないと定めた。独裁が最初に手を付けるのは、たいていこの令状である。ロンドン
- 名誉革命と権利章典できごと1688年議会が王の力を法で縛る王を替え、王でも議会の同意なしには税を取れないと文書にした。立憲君主制の出発点とされる。ロンドン

- セイラムの魔女裁判できごとAD1692年目に見えない証拠で人を吊るす牧師の娘と姪が発作を起こし、医師が「魔女の仕業」と診断した。少女たちが名を挙げ、告発が連鎖した。200人以上が告発され、19人が絞首、1人が石で圧死、5人以上が獄死した。決め手になったのは「幽霊証拠」——被害者にしか見えない霊が誰の姿をしていたか——である。マサチューセッツ総督が妻を告発されて裁判所を解散させ、幽霊証拠を禁じると、有罪はほぼ止まった。何を証拠と認めるかが、生死を分けた。セイラム

- 公事方御定書できごとAD1742年(寛保2年)先例から罰の基準を作る八代将軍の徳川吉宗は、裁きが奉行ごとにばらつくのを嫌い、それまでの判決の先例を集めて、罪と罰の基準をまとめさせた。1742年にできた公事方御定書である。下巻は、のちに「御定書百箇条」と呼ばれ、盗みや殺しや密通に、どの罰を科すかを条ごとに定めた。編んだのは寺社・町・勘定の三奉行で、町奉行の大岡忠相も加わった。御定書は公にされず、写しを見られるのは奉行など限られた役人だけだった。罪を犯した者の親族まで罰する縁座を狭め、拷問を使える場合を絞るなど、罰を軽くする向きの改めも含んでいた。江戸
- 『法の精神』できごとAD1748年権力を分ける立法・行政・司法を分けて互いに抑えさせる、という考えを体系にした。アメリカ合衆国憲法が、この本を最も多く引いている。パリ

- ベッカリーア『犯罪と刑罰』できごとAD1764年拷問と死刑を退ける26歳のミラノの貴族が匿名で出した100ページの本。刑罰の目的は復讐ではなく、犯罪の抑止である。だから、罰は犯罪に比例し、確実で、迅速でなければならない。拷問は無実の弱い者を自白させ、罪ある強い者を放免するので、真実を得る手段として無効である。死刑は、抑止の効果が終身の労役に劣り、国家が殺人を犯すことで暴力を教える。各国語に訳され、エカチェリーナ2世、トスカーナ大公、そしてアメリカの起草者たちが読んだ。ミラノ

- サマセット事件できごとAD1772年6月22日イングランドの土に奴隷はいないジェームズ・サマセットは、アフリカで捕らえられ、ヴァージニアで売られた奴隷だった。持ち主の税関の役人に連れられてロンドンへ来たが、1771年に逃げ、捕まって、ジャマイカへ売り飛ばされる船に閉じ込められた。奴隷制に反対する人々が人身保護の令状を求め、イングランドの首席裁判官マンスフィールド卿が審理した。1772年6月22日、マンスフィールドは、奴隷制はあまりに忌まわしく、それを定めた法が無い限り支えられないとして、サマセットを力ずくで国外へ連れ出すことはできないと判断した。イングランドの土に奴隷はいない、という意味に広く受け取られた。ロンドン
- アメリカ合衆国憲法の制定できごとAD1787年9月17日力を三つに分けて縛る独立したアメリカの13の邦は、ゆるい連合を組んでいたが、中央の政府には税を取る力も軍を持つ力も無く、借金も邦どうしの争いも収められなかった。1787年夏、各邦の代表55人がフィラデルフィアに集まり、扉を閉ざして4か月話し合い、まったく新しい憲法を書いた。法を作る議会、法を行う大統領、法を裁く裁判所に力を分け、互いに抑え合わせる。下院は人口に応じて、上院は各州2人ずつ選ぶ。奴隷を人口の5分の3と数える妥協も入った。9月17日に署名され、9州の批准を経て1789年に動き出した。いまも使われている成文の憲法としては、世界で最も古い。フィラデルフィア
- マーベリー対マディソン判決できごとAD1803年2月24日違憲審査の始まり1801年、任期の切れるアダムズ大統領は、自分の党の人々を判事に駆け込みで任じたが、辞令の一部は届けられないまま、政権はジェファソンに移った。新しい国務長官マディソンは辞令を渡さず、治安判事に任じられたマーベリーは、最高裁判所に渡すよう命じてほしいと訴えた。1803年2月24日、首席判事ジョン・マーシャルは、マーベリーには辞令を受け取る権利があると認めながら、最高裁にこの訴えを直接受け付けさせる法律の条文が憲法に反し、無効だとして、訴えを退けた。裁判所が法律を憲法に照らして無効にできる、違憲審査の始まりである。ワシントンD.C.
- ナポレオン法典できごとAD1804年3月21日法の前の平等を世界へ革命前のフランスには、北の慣習法と南のローマ法、そして地方ごとに数百の法体系があった。ナポレオンは4人の法律家に起草させ、自ら102回の審議のうち57回に出席した。全2281条。法の前の平等、所有権の絶対、契約の自由、宗教から切り離された婚姻。同時に、妻を夫の許可なしには何もできない立場に置いた。征服地とその模倣を通じて、ヨーロッパ、ラテンアメリカ、中東、そして日本の民法へ広がった。彼は言った。「私の真の栄光は、40の戦勝ではない。永遠に生きるのは、私の民法典である」。パリ
- イギリスの奴隷制廃止法できごとAD1833年8月28日帝国の大半で奴隷制を廃止した。奴隷ではなく所有者に2000万ポンドの補償を払い、国はその借金を2015年まで返し続けた。ロンドン
- ドレッド・スコット判決できごとAD1857年3月6日黒人は市民になれないとした判決奴隷のドレッド・スコットは、主人に連れられて奴隷制の無い州と地域に何年も暮らしたことを理由に、自由を求めて裁判に訴えた。1857年3月6日、連邦最高裁は、黒人は奴隷であれ自由人であれ合衆国の市民ではなく、裁判に訴える資格も無い、と判断する。さらに、議会が西部の地域で奴隷制を禁じることも憲法に反するとした。南北の妥協を最高裁が壊した判決は、北部の怒りをかきたて、四年後の南北戦争への道を早めた。ワシントンD.C.
- 大日本帝国憲法の発布できごと1889年2月11日(明治22年2月11日)アジアで最初の近代的な成文憲法。天皇が定めて国民に与える形をとり、議会には限られた権限が置かれた。江戸

- 大津事件できごとAD1891年5月11日司法は政府に屈するか1891年5月11日、日本を訪れていたロシアの皇太子ニコライが、琵琶湖からの帰り道、大津の町で、警備の巡査津田三蔵にサーベルで斬りつけられ、頭に傷を負った。大国ロシアの報復を恐れた政府は、皇族に危害を加えた罪を当てはめて津田を死刑にするよう、裁判所に強く迫った。だが大審院長の児島惟謙は、その罪は日本の皇族に対するものだとして退け、判事たちを説いた。津田は普通の殺人未遂として無期徒刑になった。政府の圧力から司法の独立を守った事件として語られるが、児島が担当の判事に働きかけたこと自体も、裁判への干渉だったという見方がある。大津(近江大津宮)
- 条約改正(日英通商航海条約)できごとAD1894年7月16日領事裁判権をなくす領事裁判権の撤廃。幕末の不平等条約から36年、井上、大隈、青木と失敗を重ねて、陸奥宗光が日清戦争の2週間前に結んだ。関税自主権の回復は1911年、小村寿太郎まで待つ。ロンドン
- ドレフュス事件できごとAD1894年12月22日冤罪と世論ユダヤ人の砲兵大尉が、ドイツへの通敵の罪で、筆跡だけで、終身流刑になった。悪魔島。真犯人エステラジーが分かっても、軍は隠した。1898年1月13日、ゾラの「私は弾劾する」。フランスが二つに割れた。再審、有罪、特赦、1906年に無罪。反ユダヤ主義が街に出た。ウィーンの記者ヘルツルはそれを見て、ユダヤ人の国を考えた。パリ

- 分離すれども平等できごとAD1896年5月18日分離すれども平等1892年、ニューオーリンズの靴職人ホーマー・プレッシーは、白人専用の客車に座り、黒人だとして逮捕された。人種で客車を分ける州法に挑むため、あらかじめ計画された行動だった。1896年5月18日、連邦最高裁は、設備が同じなら分けても平等に反しないと判断する。ただ一人反対した判事は、憲法は肌の色を見ない、と書いた。この判決が、学校や便所や水飲み場まで人種で分ける南部の制度に、半世紀以上の法的な裏づけを与えた。ニューオーリンズ
- 明治民法と家制度できごとAD1898年7月16日家制度を法にする明治の政府は、不平等条約を改めるため、西洋にならった法典を急いだ。フランスの法学者ボアソナードが起草した民法は1890年に公布されたが、「民法出でて忠孝亡ぶ」と、日本の家族の道徳を壊すとの反対が起き、施行は延ばされた。日本の学者が書き直した新しい民法は、1898年7月16日に全体が施行される。家族は「家」の単位でまとめられ、家の長である戸主が、家族の結婚や住む場所に同意する権限を持った。家の財産と地位は、原則として長男がひとりで継いだ。妻は、重い取引をするのに夫の許しが要った。家制度は、1947年に日本国憲法のもとで民法が改められるまで続いた。東京
- 大逆事件できごとAD1911年1月24日大逆の罪と思想天皇暗殺を計画したとして社会主義者26人が起訴され、非公開の一審で24人に死刑判決、12人が処刑された。幸徳秋水は計画を知らなかったとされる。以後、社会主義は「冬の時代」に入る。東京
- 治安維持法できごとAD1925年4月22日思想を罰する法1925年4月22日、国の形(国体)を変えることや、私有財産の制度を否定することを目的に、結社を作ったり加わったりした者を罰する治安維持法が公布された。この年、25歳以上のすべての男に選挙権を与える法も成り、ソ連と国交を結んでいた。共産主義の広がりを抑える狙いだった。1928年には最高刑が死刑に引き上げられ、取り締まりの網は共産主義者から、労働運動、自由主義の学者、宗教団体へと広がった。特高警察の拷問で死んだ者も出た。1941年の改正では、刑期を終えた者を閉じ込め続けることもできるようになった。敗戦後の1945年10月、占領軍の指令で廃止された。東京
- スコープス裁判できごとAD1925年7月10日教室で何を教えるかを法廷で1925年、テネシー州は、公立学校で、人が下等な動物から生じたという説を教えることを禁じる法を作った。自由人権協会が、この法を法廷で争う教師を探していると知ったデイトンの町の人々は、町の名を売るために、若い教師ジョン・スコープスを説き伏せ、わざと訴えさせた。7月、小さな郡の裁判所に全国から記者が押し寄せ、裁判はラジオで中継された。検察には三度大統領選挙に出た政治家ブライアン、弁護には名高い弁護士ダロウ。ダロウはブライアンを証人に呼び、聖書を文字どおりに読むことの矛盾を問い詰めた。スコープスは有罪になり、罰金100ドルを科された。デイトン(テネシー州)
- サッコとヴァンゼッティの処刑できごとAD1927年8月23日偏見に満ちた裁判1920年4月、マサチューセッツ州の靴工場で給料を運んでいた会計係と警備員が撃ち殺され、金が奪われた。捕まったのは、イタリアから来た移民の無政府主義者、靴職人のニコラ・サッコと魚の行商人バルトロメオ・ヴァンゼッティだった。第一次世界大戦のあと、アメリカでは共産主義と移民への恐れが高まっていた。1921年の裁判で、証拠は乏しく食い違っていたが、二人の思想を憎む判事のもとで死刑が言い渡される。別の男が自分も加わっていたと告白しても、裁判はやり直されなかった。世界中で抗議が起きるなか、1927年8月23日、二人は電気椅子で処刑された。ボストン
- ニュルンベルク法できごとAD1935年9月15日差別を国の法にする1935年9月15日、ニュルンベルクで開かれていたナチ党の党大会に合わせて国会が招集され、二つの法が通された。帝国市民法は、ドイツの血を持つ者だけを市民とし、ユダヤ人から市民の権利を奪った。ドイツ人の血と名誉を守る法は、ユダヤ人とドイツ人の結婚と性的な関係を禁じた。では誰がユダヤ人なのか。血を測る方法は無かったので、11月の施行令は、祖父母のうち何人がユダヤ教の共同体に属していたかで人を分けた。人種の名による差別が、国の法になった。ロマや黒人にも同じ法が当てはめられ、3年後の水晶の夜へ、そして虐殺へと続いていく。ニュルンベルク
- ニュルンベルク裁判できごとAD1945年11月20日人道に対する罪戦争に負けた国の指導者を、勝った国々が法廷で裁く。1945年11月20日、ナチスの党大会が開かれた町ニュルンベルクで、アメリカ、イギリス、フランス、ソ連の判事による裁判が始まった。侵略の戦争を計画したこと、そして人道に対する罪が問われる。命令に従っただけだ、という弁明は退けられた。翌年、十二人に死刑が言い渡される。勝者の裁きだという批判もあったが、国家の指導者個人が国際法で裁かれるという原則は、のちの国際刑事裁判所につながった。ニュルンベルク
- 東京裁判できごとAD1946年5月3日市ヶ谷の旧陸軍省。11か国の判事。A級戦犯28人。「平和に対する罪」。2年半。7人が絞首刑。東条英機、広田弘毅。インドのパル判事は全員無罪の意見書を書いた。天皇は訴追されなかった。「勝者の裁き」か「文明の裁き」か、日本ではいまも二つの答えがある。東京

- 日本国憲法できごとAD1946年11月3日基本的人権と違憲審査敗戦後、日本の政府が出した憲法の改正案は、明治の憲法をほとんど変えないものだった。連合国軍総司令部は自ら草案を作って示し、政府はこれをもとに案を作り直す。帝国議会の審議で、戦力を持たないとする条文の書き方や、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利が加えられた。1946年11月3日に公布され、翌年5月3日に施行される。国民が主権を持ち、戦争を放棄し、基本的人権を保障する。一度も改められないまま、いまに至っている。東京
- 世界人権宣言できごとAD1948年12月10日二つの大戦とホロコーストのあとで、国連総会が48か国の賛成、反対なしで採択した。拷問の禁止、奴隷の禁止、法の前の平等。守られない国は多いが、基準はここで書かれた。パリ

- ブラウン判決できごとAD1954年5月17日分離は不平等カンザス州トピーカの黒人の少女リンダ・ブラウンは、家の近くの白人の学校に入れず、遠い黒人の学校へ通っていた。黒人の地位向上を求める団体の弁護士サーグッド・マーシャルは、各地の同じような訴えをまとめて最高裁へ持ち込む。黒人の子どもが白い人形を良いとし黒い人形を悪いと答える心理学の実験も、証拠として出された。1954年5月17日、最高裁は全員一致で、公立学校を人種で分けることは憲法に反すると判断した。分けること自体が不平等だとされた。トピーカ
- 朝日訴訟できごとAD1957年8月12日生存権を法廷で問う朝日茂は、岡山の国立療養所で長く結核の療養を続け、生活保護を受けていた。日用品に充てる額は月600円で、下着は2年に1枚、ちり紙は月1束という計算だった。1956年、兄から月1500円の仕送りが届くようになると、福祉事務所は日用品の扶助を打ち切り、残る900円を医療費として納めさせた。朝日は、これでは憲法25条の「健康で文化的な最低限度の生活」が守られないとして、国を訴えた。1960年の一審は朝日の訴えを認めたが、二審で逆転し、朝日は上告中に亡くなった。「人間裁判」と呼ばれたこの訴えの後、保護の基準は大きく引き上げられた。岡山
- アイヒマン裁判できごとAD1961年4月11日命令に従っただけかアドルフ・アイヒマンは、ナチ・ドイツの親衛隊で、ヨーロッパ中のユダヤ人を収容所へ送る列車の手配を取り仕切った。戦後、偽名でアルゼンチンに逃れていたが、1960年5月、イスラエルの情報機関に捕らえられ、ひそかにイスラエルへ運ばれた。1961年4月、エルサレムで裁判が始まる。防弾ガラスの箱の中の被告の前で、百人を超える生き延びた人々が、収容所で起きたことを語り、裁判の様子は録画されて世界に流された。12月、アイヒマンは死刑を言い渡され、翌年絞首刑になった。傍聴した哲学者アーレントは、命令に従っただけだと語る平凡な役人の姿を「悪の凡庸さ」と書いた。エルサレム
- 公民権法できごとAD1964年7月2日ケネディ大統領が提案し、暗殺のあとを継いだジョンソン大統領が議会を押し切った。南部の議員たちは長い演説で採決を引き延ばしたが、1964年7月2日、法は成立する。店や食堂やホテルで、人種や肌の色や宗教や出身国で客を分けることを禁じ、雇うときの差別も禁じた。性別による差別の禁止も加えられた。法案を潰すために反対派が入れたとも言われるが、そのまま残り、女性の職場での権利の土台になった。ワシントンD.C.
- ミランダ判決できごとAD1966年6月13日取り調べの前に権利を告げる1963年、アリゾナ州フェニックスで、誘拐と強姦の疑いで捕まったエルネスト・ミランダは、2時間の取り調べで自白し、有罪になった。黙っている権利も、弁護士を呼べることも、告げられていなかった。1966年6月13日、合衆国の最高裁判所は5対4で、警察に身柄を押さえられた人を取り調べる前には、黙っている権利があること、話したことは不利な証拠に使われうること、弁護士を付けてもらえること、払えなければ国が付けることを告げなければならず、告げずに得た自白は証拠にできないと判断した。刑事ドラマでおなじみの「あなたには黙秘権がある」は、ここから来ている。ワシントンD.C.
- 異なる人種の結婚できごとAD1967年6月12日結婚の自由白人のリチャード・ラヴィングと、黒人と先住民の血を引くミルドレッドは、1958年にワシントンで結婚し、故郷のヴァージニアに戻った。数週間後、夜中に保安官が寝室に踏み込み、二人は異なる人種の結婚を禁じる州法で有罪になる。州を出て暮らすことを条件に刑を猶予された。1967年6月12日、連邦最高裁は、結婚は人の基本的な自由であり、人種で制限することは憲法に反すると判断した。二人の姓が、そのまま判決の名になった。ワシントンD.C.
- ロー対ウェイド判決できごとAD1973年1月22日多くの州が人工妊娠中絶を犯罪としていた。テキサスで中絶を望んだ女性が、ジェーン・ロウの仮名で州を訴える。1973年1月22日、連邦最高裁は、女性が妊娠を続けるかどうか決めることは私生活の権利として守られる、と判断し、各州の禁止を大きく制限した。以後、この判決はアメリカの政治を二分する争点であり続ける。2022年、最高裁はこの判断を覆し、中絶を認めるかどうかは再び州ごとに決められることになった。ワシントンD.C.
- 尊属殺重罰規定の違憲判決できごとAD1973年4月4日戦後初の法令違憲刑法200条は、父母や祖父母など目上の親族を殺した者を、死刑か無期懲役に限って罰すると定めていた。1968年、栃木県で、14歳のころから実の父に性的な虐待を受け、子を産まされ続けた29歳の女性が、結婚を妨げて自分を閉じ込める父を殺した。この条文では、どれほど事情を酌んでも刑の執行を猶予できない。1973年4月4日、最高裁判所の大法廷は、この条文は罰が重すぎて法の下の平等に反するとして、戦後初めて法律の規定を憲法違反とした。女性は執行猶予つきの判決を受けた。条文はその後も削られずに残り、1995年の刑法の改正でようやく消えた。東京
- フランスの死刑廃止できごとAD1981年10月9日ギロチンの終わり1981年、大統領選挙に勝ったミッテランは、世論の6割ほどが死刑の存続を望んでいると知りながら、死刑の廃止を約束していた。法務大臣に選ばれた弁護士ロベール・バダンテールは、9月の国民議会で、死刑は犯罪を減らさず、裁きの誤りを取り返せないと説いた。法案は議会と元老院を通り、10月9日に公布された。ギロチンによる最後の処刑は、1977年だった。フランス革命の時代から二百年近く使われた断頭台は、ここで止まった。ヨーロッパではこのあと、死刑の廃止が欧州評議会とヨーロッパ連合に加わる条件になっていく。パリ
- 免田事件の再審無罪できごとAD1983年7月15日死刑囚の再審無罪1948年の暮れ、熊本県人吉市で、祈祷師の夫婦が殺され、娘二人が傷を負った。翌月、23歳の免田栄が別の件で捕まり、眠らせない取り調べのなかで自白させられ、殺人の罪で起訴された。免田は法廷で無実を訴えたが、1951年に死刑が確定する。その夜は別の場所にいたという訴えは退けられた。獄中から再審を求め続け、6度目の請求が認められて、1983年7月15日、熊本地方裁判所八代支部は無罪を言い渡した。捕まってから34年あまり。死刑が確定した人が、やり直しの裁判で無罪になったのは、日本で初めてだった。熊本
- マボ判決できごとAD1992年6月3日「無主の地」を覆すオーストラリアは無主の地だった、という法の建前を最高裁が覆した。原告本人は5か月前に死んでいる。キャンベラ
- らい予防法の廃止できごとAD1996年(平成8年)4月1日隔離の法をやめるハンセン病は感染力が弱く、1940年代には治る薬ができていた。それでも日本は、患者を療養所に閉じ込める政策を続けた。1907年に始まり、1931年の法で全患者の隔離が国の方針になり、各県が競って患者を探し出して送り込んだ。療養所では改名させられ、子を持つことを許されず、逃げれば監禁室に入れられた。薬が効くと分かったあとも、法は1953年に作り直されて残る。廃止されたのは1996年、始まりから八十九年後である。2001年、熊本地裁は隔離の継続を違憲と認めた。病そのものより、病を恐れる決まりのほうが、人を長く傷つけた。東京
- 国際刑事裁判所できごとAD2002年7月1日個人の罪を裁く常設の法廷ニュルンベルクと東京の裁判は、勝者が敗者を裁く臨時の法廷だった。旧ユーゴとルワンダの法廷も、事件ごとに作られた。常設の裁判所を作る構想は1948年からあり、冷戦で止まり、1998年のローマ規程で実現した。集団殺害、人道に対する罪、戦争犯罪、そして侵略の罪。国家ではなく個人を裁く。国内の裁判が機能しないときにだけ動く(補完性)。アメリカ、ロシア、中国、インドは加盟していない。逮捕は加盟国の協力に頼るしかない。ハーグ

- 裁判員制度の始まりできごとAD2009年5月21日市民が裁く2009年5月21日、くじで選ばれた市民が、殺人や強盗致死などの重い事件の刑事裁判に加わる裁判員制度が始まった。6人の裁判員と3人の裁判官が一緒に審理し、有罪か無罪か、有罪ならどれほどの刑かを決める。8月、東京地方裁判所で最初の裁判が開かれた。日本では戦前の1928年から陪審の制度があったが、使われることが少なく、1943年に止められていた。専門家だけの裁判を市民の感覚に近づけるのが狙いで、裁判所は書面より、法廷で見て聞いて分かる審理に変わっていった。東京
- オーバーゲフェル判決できごとAD2015年6月26日同性婚が全米でオハイオ州のジム・オーバーゲフェルは、20年あまり連れ添った男性のパートナーが難病で死にかけていたとき、同性婚が認められていたメリーランド州へ飛び、空港に止めた医療用の飛行機の中で結婚した。だがオハイオ州は、パートナーの死亡証明書に、彼を配偶者として書くことを拒んだ。2015年6月26日、合衆国の最高裁判所は5対4で、結婚する権利は同性の二人にも憲法で保障されているとし、すべての州で同性婚を認めさせた。多数意見を書いたケネディ判事は、二人が求めているのは法の前での平等な尊厳だと書いた。ワシントンD.C.
重なっているストーリー
同じできごとや人物を含む物語です。何件を共有しているかを添えました。
主権はだれのものか24件を共有 / 王が決めるのか、議会が決めるのか、国民が決めるのか。800年かけて答えが動いた。差別の歴史14件を共有 / 線を引いて内と外を分ける。理屈は、たいてい後から付けられた。考えることの歴史13件を共有 / 同じ数百年のあいだに、ギリシアでも中国でもインドでも、人が根本から考え直した。ムンディ先生の講義で学ぶ歴史8件を共有 / 高校の先生「ムンディ先生」が、世界史と日本史を200講ずつで通した授業の動画。ここに並ぶ項目には、その講の動画が付いている。二つの大戦7件を共有 / 一発の銃声から31年。二つの戦争は別々ではなく、前者の終わらせ方が後者を呼んだ。女性の権利7件を共有 / 人口の半分が、参政権を得るまでに文明の歴史のほとんどを要した。明治6件を共有 / 藩を消し、身分を消し、40年で列強と戦えるところまで作り替えた。その代償も含めて。戦争と平和の歴史6件を共有 / 戦争を無くせなかった人類が、それでも戦争を縛り、減らし、裁こうとしてきた工夫の歴史。武士の700年4件を共有 / 地方の武装集団が政権を取り、そして自ら身分ごと消えるまで。性の歴史4件を共有 / 何が自然で何が異常かは、時代ごとに書き換えられてきた。書き換えてきたのは、法と医学と経済になる。キリスト教のひろがり3件を共有 / 迫害される小集団が、300年で帝国の宗教になり、そこから何度も割れながら世界へ出ていった。誰が書き残したか3件を共有 / 残っているものが全部ではない。誰の筆によるかで、同じ出来事が違って見える。中華の統一2件を共有 / 殷を倒した周から、初めて中国をひとつにした秦まで。800年かけて「天下」という考えが育つ。古代オリエント2件を共有 / 文字も法も都市も、まずここで生まれた。そして次々に主が入れ替わる2500年。都市の歴史2件を共有 / 人が密集して住むという異常な選択が、文明のほとんどを生んだ。冷戦のあと2件を共有 / 対立の構図が消えたあと、何が残ったのか。1989年からの三十年。文明のはじまり2件を共有 / 農耕も都市も文字も、離れた場所で別々に始まった。そして始まった順序は、思っているのと違う。『サピエンス全史』で読む歴史2件を共有 / ハラリが人類史を三つの革命で切った本。その筋に沿って、このデータベースの項目を並べ直す。『国家はなぜ衰退するのか』で読む歴史2件を共有 / 国境をひとつ挟んで豊かさが違うのは、地理でも文化でもなく制度のせいだ、という本。2024年のノーベル経済学賞の元になった。『暴力の人類史』で読む歴史2件を共有 / 人が人を殺す率は、狩猟採集の時代から今まで、長い目で見ればずっと下がってきた、という本。反論も多い。教育の歴史2件を共有 / 子どもが学校へ行くのが当たり前になったのは、ごく最近になる。誰が、誰に、何のために教えてきたか。メディアの歴史2件を共有 / 誰が、どれだけ速く、何人に届けられるか。その力を誰が握るかをめぐる歴史になる。ローマ人の物語1件を共有 / ラティウムの一都市が地中海全域を呑み込み、そして西半分が消えるまでの1200年。宗教改革と科学革命1件を共有 / 教会が独占していた「何が正しいか」の答えが、聖書と観測に明け渡されるまで。冷戦1件を共有 / 撃ち合わずに40年競った。ただし代理の戦場では、実際に人が死に続けた。東ローマ千年1件を共有 / ローマの西半分が消えたあと、東半分は1000年続いた。その中身をローマの続きとして並べる。帝国と独立1件を共有 / 数十年で世界の大半が数か国のものになり、また数十年で戻った。日本の古代1件を共有 / 中国の史書にだけ名が残る王たちから、律令の国家ができるまで。手本は常に大陸にあった。確かめるという方法1件を共有 / 偉い人がそう言ったから、をやめた話。誰が最初かは、思っているほどはっきりしない。『ローマ人の物語』で読むローマ1件を共有 / 塩野七生が15年かけて15巻で書いた、建国から西の帝国の終わりまで。このデータベースの第一期と同じ範囲になる。『ローマ帝国衰亡史』で読むローマ1件を共有 / ギボンが1776年に出しはじめた、トラヤヌスからコンスタンティノープル陥落までの1300年。「なぜ滅びたか」を問う型はここで作られた。『世界史』(マクニール)で読む歴史1件を共有 / 文明どうしが接触し、借り、競い合うことで歴史が動く。世界を一つの物語として書いた最初の教科書。『繁栄』で読む歴史1件を共有 / 人類が豊かになったのは交換のおかげで、悲観する理由はいつも外れてきた、という本。反論側も付けてある。『万物の黎明』で読む歴史1件を共有 / 狩猟採集から農耕へ、村から都市へ、そして国家へ。その一本道の筋書きそのものが間違いだ、という本。『負債論』で読む歴史1件を共有 / お金は物々交換の不便から生まれた、という話は史料に無い。先にあったのは借りのほうだ、という本。『想像の共同体』で読む歴史1件を共有 / 国民とは、会ったこともない人を同じ仲間だと思える想像力のことだ、という本。『反穀物の人類史』で読む歴史1件を共有 / 人が穀物を育てたのではなく、穀物と国家が人を囲い込んだ。最初の国家は、なぜ壁の内側に人を閉じ込めたのか。『大転換』で読む歴史1件を共有 / 市場はずっと社会の一部だった。それが逆転して、社会のほうが市場に合わせはじめた19世紀に何が起きたか。『近代世界システム』で読む歴史1件を共有 / 国ごとの発展を比べるのをやめる。16世紀からずっと、世界は一つの分業の仕組みとして動いてきた、という本。『菊と刀』で読む日本1件を共有 / 一度も日本へ行かないまま、戦時中のアメリカで書かれた日本人論。読み継がれ、批判され続けている。『ホモ・デウス』で読む次の歴史1件を共有 / 飢餓と疫病と戦争を抑え込んだ人類が、次に何を目指すか。『サピエンス全史』の続編。『チーズとうじ虫』で読む一人の宇宙1件を共有 / 16世紀の村の粉挽きが、世界は腐ったチーズから生まれたと語った。裁判の記録から、一人の頭の中を復元する。『モンタイユー』で読む中世の村1件を共有 / ピレネーの村人200人が、異端審問で一人ずつ尋問された。その調書から、村の暮らしが丸ごと出てくる。『暴力と不平等の人類史』で読む格差1件を共有 / 格差を大きく縮めたのは、改革ではなく破局だった。戦争、革命、国家の崩壊、疫病の四つしかない、という本。『イタリア・ルネサンスの文化』で読むルネサンス1件を共有 / 「ルネサンス」という時代の像そのものを作った本。150年たっても、まだその像の中にいる。『砂糖の世界史』で読む世界商品1件を共有 / 一つの白い粒を追いかけると、カリブの奴隷とイギリスの朝食と産業革命が一本につながる。『昨日までの世界』で読む伝統社会1件を共有 / 国家のない社会は、争いも子育ても老いも、私たちと違うやり方で扱ってきた。何を学べるか。支え合いの歴史1件を共有 / 働けなくなった人を、誰が支えるのか。家族か、宗教か、国か。答えは何度も入れ替わってきた。障害の歴史1件を共有 / 同じ体でも、社会の作りが変われば障害の重さは変わる。誰を数に入れるかの歴史になる。近代と宗教1件を共有 / 科学と国家と世俗化の時代に、信仰は消えるどころか、形を変えて燃え上がり続けた。