ボスニア紛争
概要
同じ言葉を話し、隣り合って暮らしてきた人びとが、宗教で線を引かれて殺し合った。ヨーロッパで戦争は終わったという前提が、冷戦の3年後に崩れる。
場所
43.86°N 18.41°E · ボスニア・ヘルツェゴビナ
本文
第二次世界大戦の後、バルカン半島の西部は、チトーの率いるユーゴスラビア社会主義連邦共和国の下にまとめられていた。セルビア、クロアチア、スロベニア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、モンテネグロ、マケドニアの六つの共和国からなる連邦で、チトーは「友愛と統一」を掲げ、民族の対立を力と工夫で抑え込んでいた。第二次世界大戦中、この地では民族どうしの凄惨な殺し合いがあり、その記憶は消えていなかった。
1980年にチトーが死ぬと、経済の危機の中で、各共和国の政治家たちは民族主義に支持を求めるようになった。セルビアではミロシェヴィッチが、セルビア人の権利を守ると訴えて力を握った。東欧の社会主義が崩れ(ベルリンの壁の崩壊)、ソ連の解体が進む1991年、スロベニアとクロアチアが独立を宣言し、クロアチアではセルビア人の住む地域をめぐって戦争が始まった。
ボスニア・ヘルツェゴビナは、連邦の中でも最も民族が入り混じった共和国だった。1991年の国勢調査では、住民のおよそ44%がムスリム(ボシュニャク)、31%がセルビア人、17%がクロアチア人だった。三つの集団は同じ言葉を話し、同じ町に住み、異なる集団どうしの結婚も珍しくなかった。違いは主に宗教にあった。ボシュニャクはオスマン帝国の時代にイスラームに改宗した人びとの子孫、セルビア人は正教徒、クロアチア人はカトリック教徒である。
1992年の2月末から3月初めにかけて、独立を問う住民投票が行われた。セルビア人の多くは投票をボイコットし、投票した人のほとんどが独立に賛成した。3月にボスニアは独立を宣言し、4月にはヨーロッパ共同体とアメリカが承認した。セルビア人の勢力はこれを拒み、自分たちの「スルプスカ共和国」を作った。カラジッチがその政治の指導者、ムラディッチが軍の司令官になる。旧ユーゴスラビア連邦軍の重火器を受け継いだセルビア人の勢力は、またたく間に国土の大部分を押さえた。

首都サラエヴォは、1992年4月から1996年2月まで、周りの山に陣取ったセルビア人の勢力に包囲された(サラエヴォ包囲)。1425日におよぶ包囲は、近代の戦争で最も長い首都の包囲とされる。水道も電気もガスも止まり、市民は狙撃手の銃口にさらされた通りを走って水を汲みに行った。市場や水汲みの列に砲弾が落ち、1万人以上が死んだ。
占領した土地では、別の民族の住民を追い出し、殺し、家を焼き、女性たちを組織的に暴行することが行われた。ある地域を一つの民族だけの土地にするこの行為は、「民族浄化」と呼ばれた。収容所の痩せこけた男たちの映像が、第二次世界大戦の強制収容所を思い起こさせて世界に衝撃を与えた。民族浄化はセルビア人の勢力が最も大規模に行ったが、ほかの勢力も行った。1993年から1994年にかけてはボシュニャクとクロアチア人のあいだでも戦闘が起き、モスタルでは16世紀のオスマン時代の石橋が砲撃で落とされた。

国連は平和維持部隊を送り、いくつかの町を「安全地帯」に指定したが、守るための兵力も権限も足りなかった。1995年7月、安全地帯だった東部のスレブレニツァを、ムラディッチの軍が攻め落とした。駐留していたオランダの国連部隊は抵抗できなかった。避難していた住民のうち、男性と少年が女性たちから引き離され、数日のうちに8000人以上が殺されて、穴に埋められた(スレブレニツァの虐殺)。第二次世界大戦後のヨーロッパで最悪の大量殺害であり、のちに旧ユーゴスラビア国際刑事法廷と国際司法裁判所が、これをジェノサイドと認定している。
スレブレニツァとサラエヴォの市場への砲撃のあと、NATOは1995年の夏から秋にかけて、セルビア人の勢力に大規模な空爆を加えた。同じころ、クロアチア軍とボスニア政府軍が攻勢に出て、戦況は変わった。アメリカの仲介で、11月にオハイオ州デイトンの空軍基地で和平の交渉がまとまり、12月にパリで正式に署名された(デイトン合意)。

戦争の死者はおよそ10万人、家を追われた人は200万人を超えた。和平は戦いを止めたが、国を二つの構成体に分けた。ボシュニャクとクロアチア人の連邦と、セルビア人のスルプスカ共和国である。国の大統領は三つの民族から一人ずつ選ばれ、国際社会から派遣された上級代表が強い権限を持つ。戦争を止めるために作られたこの仕組みは、民族ごとの分断を固定し、国をいまも動きにくいものにしている。カラジッチとムラディッチは長い逃亡の末に逮捕され、国際法廷で終身刑を言い渡された。ミロシェヴィッチは裁判の途中で獄中で死んだ。
冷戦が終わって3年。ヨーロッパで大きな戦争は終わった、という前提が崩れた。同じ時期にはルワンダ虐殺も起き、国際社会は虐殺を止められなかったことを問われた。この経験は、のちの国際刑事裁判所の設立につながっていく。ハンチントンは物語「『歴史の終わり』と『文明の衝突』で読む冷戦後」で取り上げられる『文明の衝突』で、ボスニアを、正教、カトリック、イスラームという文明の断層線で起きた戦争の典型として扱った。一方で、隣人どうしを殺し合いに向かわせたのは古くからの文明の対立ではなく、権力を求める政治家たちが作り出した恐怖と歴史の物語だった、と反論する研究者も多い。