米墨戦争

概要
テキサスの併合と、リオ・グランデかヌエセス川かの境界の争い。ポーク大統領は戦争を欲しがっていた。ヴェラクルスに上陸したスコットがメキシコシティに入った。1848年、グアダルーペ・イダルゴ条約。メキシコは領土の半分、カリフォルニア、ネバダ、ユタ、アリゾナ、ニューメキシコを1500万ドルで渡した。グラントは「強い国が弱い国にした、最も不正な戦争」と回想した。
場所
19.43°N -99.13°E · メキシコ
関わった人(2)
ジェームズ・ポークAD1795年11月2日–AD1849年6月15日 · 戦争を欲しがったユリシーズ・グラントAD1822年4月27日–AD1885年7月23日 · 若い中尉で本文
1821年、メキシコはスペインから独立した(メキシコの独立)。新しい国は、北はいまのカリフォルニアからテキサス、コロラドにまで及ぶ広い土地を受け継いだが、北部は人がまばらで、首都から遠かった。メキシコ政府は、北のテキサスに人を住まわせるため、アメリカからの入植を認めた。やってきたアメリカ人の多くは南部の出身で、綿花を作るために奴隷を連れてきた。メキシコが1829年に奴隷制を廃止すると、入植者との対立は深まった。1836年、テキサスの入植者たちは反乱を起こし、アラモの砦での全滅を経て、サンハシントの戦いでメキシコの大統領サンタ・アナを捕らえ、独立を宣言した。メキシコはこの独立を認めなかった。
テキサス共和国は合衆国への併合を望んだが、奴隷州が増えることを嫌う北部の反対で、併合は10年近く見送られた。1844年の大統領選挙で、併合と西への拡大を掲げた民主党のジェームズ・ポークが勝った。1845年、合衆国はテキサスを併合した。大陸の端から端まで広がることこそアメリカの「明白な運命」だという言葉が、この年に新聞で唱えられ、流行した。

争いの火種は国境にあった。メキシコの側は、テキサスの南の境をヌエセス川としていた。テキサスとアメリカは、そこから200キロほど南のリオ・グランデ川を境だと主張した。ポークの狙いはテキサスにとどまらず、太平洋岸のカリフォルニアと、そのあいだのニューメキシコにあった。彼は使節を送って土地を買い取ろうとしたが、メキシコの政府は会おうとしなかった。1846年のはじめ、ポークはザカリー・テイラー将軍の軍を、争いのある土地を越えてリオ・グランデの岸まで進ませた。
1846年4月25日、川の北側で、メキシコの騎兵がアメリカの偵察隊を襲い、兵士十数人が死傷した。知らせを受けたポークは議会に、メキシコはアメリカの領土に侵入し、アメリカの土の上でアメリカ人の血を流した、と訴えた。5月13日、議会は宣戦を決めた。

戦争には、アメリカの国内でも反対があった。奴隷制を広げるための戦争だと考える北部の人々は強く批判した。マサチューセッツの思想家ヘンリー・ソローは、戦争と奴隷制を支える政府への税を払うことを拒んで一晩牢に入れられ、その経験から、不正な法には従わない市民の権利を論じる講演を行い、文章にまとめた。のちに『市民の反抗』として知られ、ガンディーやキングにも影響を与えた。1847年、イリノイから当選したばかりの下院議員エイブラハム・リンカーンは、アメリカ人の血が流されたという「その地点」がどこなのか、本当にアメリカの土地なのかを示せと、大統領に迫る決議案を出した。
戦場では、アメリカ軍が勝ち続けた。テイラーの軍は北からメキシコに入り、1846年9月にモンテレーを取り、1847年2月のブエナ・ビスタの戦いで、数で勝るサンタ・アナの軍を退けた。西では、スティーヴン・カーニーの部隊がニューメキシコのサンタフェを無血で占領し、カリフォルニアへ向かった。カリフォルニアでは、アメリカ人の入植者たちが熊を描いた旗を掲げて反乱を起こし、海軍が港を押さえていた。

決め手になったのは、ウィンフィールド・スコット将軍の作戦だった。1847年3月、スコットはメキシコ湾岸のヴェラクルスに1万人ほどの軍を上陸させ、町を砲撃して降伏させた。アメリカ軍にとって初めての大規模な上陸作戦だった。そこから、かつてスペインのコルテスがたどった道に沿って内陸の首都を目指し、セロ・ゴルド、チュルブスコと勝ち進んだ。9月13日、首都の入口のチャプルテペク城を攻め落とした。城にあった士官学校の少年の候補生たちのうち6人が、降伏を拒んで戦死したと伝えられ、メキシコでは「少年英雄」として記念されている。アメリカ軍の側では、アイルランド系などのカトリックの兵士たちが軍を脱走し、メキシコの側で聖パトリック大隊として戦っていた。捕らえられた彼らの多くは絞首刑にされた。9月14日、スコットの軍はメキシコシティに入った。アメリカ海兵隊の歌は、いまも「モンテスマの宮殿から」と歌い出す。
1848年2月2日、首都の北の町グアダルーペ・イダルゴで講和の条約が結ばれた。メキシコはリオ・グランデを国境と認め、カリフォルニアとニューメキシコを合衆国に譲った。いまのカリフォルニア、ネバダ、ユタの全体と、アリゾナ、ニューメキシコ、コロラド、ワイオミングの一部にあたる。テキサスを含めれば、メキシコは独立したときの国土のおよそ半分を失った。合衆国はその代わりに1500万ドルを払い、メキシコがアメリカ市民に負っていた債務を肩代わりした。譲られた土地に住んでいたメキシコ人の多くは、そのままアメリカ人になった。条約の9日前、カリフォルニアのサッターの製材所で金が見つかっていた。翌年から世界中の人々がカリフォルニアに押し寄せ、その富はアメリカのものになった。

この戦争で、アメリカ軍は1万3000人ほどの兵を失った。戦闘で死んだのは2000人に満たず、残りは赤痢や黄熱病など病によるものだった。メキシコ側の死者は、兵と民間人を合わせて2万5000人ほどと推計されている。若い士官として従軍した者のなかには、ロバート・リーやユリシーズ・グラントなど、のちの南北戦争の将軍たちがいた。
グラントは、晩年の回想録に、この戦争を、強い国が弱い国に対して行った戦争のなかでも最も不正なものの一つだったと書いた。そして、南部の反乱はメキシコ戦争の産物であり、国も人と同じように罪の罰を受ける、と続けた。奪い取った広大な土地に奴隷制を認めるかどうかで、北部と南部の対立は一気に激しくなったのである。戦争中に、新しい領土では奴隷制を禁じるという条項が議会に出されて大論争になり、1850年の妥協も、1854年の法律も、対立を抑えきれなかった。1857年のドレッド・スコット判決を経て、条約から13年後、南北戦争が始まる。

メキシコでは、この戦争はいまも「アメリカの侵攻」として記憶され、チャプルテペクの少年英雄は国の英雄である。アメリカの南西部の地名や町並みや言葉には、そこがかつてメキシコだったことが色濃く残っている。