高麗の科挙
概要
光宗が後周から来た双冀の勧めで科挙を始めた。それまでの豪族の家柄でなく、試験で。同時に奴婢按検法で豪族の私奴を減らした。豪族を殺し、王の力を作った。朝鮮の科挙は1894年まで続いた。
場所
37.97°N 126.55°E · 朝鮮民主主義人民共和国(高麗の都)
本文
918年に高麗の建国を果たした王建は、各地に割拠する豪族たちを、婚姻と懐柔で束ねることで国をまとめた。豪族の娘を次々に后や妃に迎え、その数は二十九人にのぼったとされる。そのため王の死後、外戚となった豪族たちのあいだで王位をめぐる争いが続いた。王権はまだ、豪族たちの連合の上に乗った不安定なものだった。
949年に即位した四代目の王、光宗は、この状態を変えようとした。即位してしばらくは慎重に振る舞ったが、956年、奴婢按検法という法を出す。戦乱の中で豪族たちに捕らえられたり、借金のかたに取られたりして奴婢にされた人びとを調べ、もとは良民だった者を解放させる法である。奴婢は豪族の私兵や働き手でもあったから、これは豪族の力を削ぐことを狙っていた。

同じ956年、中国の後周から使節とともに来た文人の双冀が、病のために高麗にとどまった。光宗は双冀を重く用い、その勧めで958年、科挙を始める。科挙は、中国で隋の時代に始まった、試験で役人を選ぶ仕組みである(科挙の始まり)。高麗の科挙は、詩や文章を作る力を問う製述科、儒教の経典の理解を問う明経科、医学や天文などの専門の技能を問う雑科などに分かれていた。家柄ではなく学問の力で役人を選ぶ道が、朝鮮半島で初めて開かれたのである。もっとも、受験できるのは良民の男子に限られ、奴婢や一部の賤しいとされた身分の者には道が閉ざされていた。
光宗の狙いは、豪族や建国の功臣に頼らず、王に忠実な新しい官僚を育てることにあった。双冀のほかにも中国から来た人びとを登用し、役人の服の色を位によって定めて、王を頂点とする秩序を目に見える形にした。高麗独自の年号を立て、都の開京を皇都と呼んだこともある。そして治世の後半には、反抗の疑いをかけた豪族や功臣を、大規模に粛清した。多くの古い功臣が殺され、獄はいつも満員だったと、のちの記録は伝えている。
科挙は、高麗の政治をすぐに家柄から切り離したわけではない。高い位の役人の子や孫は、試験を受けずに役人になれる蔭叙という特権を持っていた。科挙に合格する者も、多くは都の有力な家の出身だった。高麗は、科挙を通りながらも、いくつかの名門の家が代々高い位を占める門閥貴族の社会になっていく。試験の責任者と合格者のあいだには、座主と門生と呼ばれる師弟のような結びつきが生まれ、それが官界の派閥にもなった。10世紀の末には都に国子監という国の学校が置かれ、11世紀には崔沖のような高名な学者が開いた私塾に、科挙をめざす若者が集まった。武官を選ぶ試験はほとんど行われず、文官が武官を見下す風潮は、のちの高麗の武臣政変の遠い原因の一つになった。
光宗の死後、粛清の恐怖政治は改められた。六代目の成宗のときには、儒学者の崔承老が政治の改革案を上奏し、儒教の理念で国を治める仕組みが整えられていく。科挙は、その仕組みを支える柱として定着した。それでも、科挙が始まった意味は大きかった。新羅の時代には、新羅の骨品制によって、生まれた身分で就ける位が厳しく決まっていた。それに比べれば、学問を身につければ役人になれるという道筋が示されたことは、社会の仕組みを大きく変えた。学問を修めることが出世の手段になり、儒学の教育が広がった。
科挙は朝鮮王朝にも受け継がれ、両班と呼ばれる支配層は、科挙に合格することを家の誇りとした。試験のための勉強は儒学の古典を中心とし、学問と政治が強く結びついた社会が形づくられる。この仕組みが終わったのは、近代化をめざした1894年の甲午改革のときである。光宗が始めた試験は、九百年あまりにわたって朝鮮半島の役人を選び続けた。