人物

スティーヴ・ビコ

Steve Biko
AD1946年12月18日 – AD1977年9月12日(享年30)
南アフリカ重要度 4

概要

黒人意識運動を起こした。「抑圧者の最も強力な武器は、被抑圧者の心である」。拘禁中に殴られて死んだ。30歳。

関わったできごと(1)

アパルトヘイトの終結AD1994年 · その死が運動を広げた

本文

1946年12月18日、南アフリカのいまの東ケープ州で生まれ、キング・ウィリアムズ・タウンの近くの黒人居住区で育った。父は警官を経て役所の事務員となり、通信教育で法律を学んでいたが、彼が4歳のときに亡くなった。母は白人の家の家事や病院の雑役で働き、4人の子を育てた。彼が2歳になる1948年、南アフリカでは人種隔離政策アパルトヘイトを掲げる国民党が政権を取っていた。人の住む場所も、学校も、仕事も、肌の色によって法律で分けられていった。

スティーヴ・ビコ追悼集会のチラシ
スティーヴ・ビコ追悼集会のチラシWikimedia Commons Cape Argus · Public domain

16歳のとき、名門の黒人寄宿学校に進んだが、兄が反政府組織に関わった疑いで逮捕されると、彼自身も警察の取り調べを受け、学校を退学させられた。ビコはこのとき、権力への強い反感を抱いたと後に語っている。カトリックの学校で学業を続け、1966年、ナタール大学の医学部の「非白人」部門に入った。

当時、反アパルトヘイトの学生運動の中心は、白人のリベラルな学生が主導する全国学生連合だった。ビコも初めはそこに加わったが、やがて違和感を覚える。会議では白人の学生が議論を仕切り、黒人の学生は聞き役に回る。善意の白人が黒人のために闘うという構図そのものが、黒人を受け身のままにしている、と彼は考えた。1968年、ビコは仲間とともに黒人学生だけの組織、南アフリカ学生機構を作り、翌年その議長になった。合言葉は「黒い人間よ、お前は自分自身で立て」だった。

ビコは白人リベラル活動家ドナルド・ウッズと親友になった。ウッズはビコについての本をその死後に描いた
ビコは白人リベラル活動家ドナルド・ウッズと親友になった。ウッズはビコについての本をその死後に描いたWikimedia Commons Bert Verhoeff for Anefo · CC0

こうして始まったのが、黒人意識運動である。ビコの言う「黒人」は肌の色そのものではなく、アパルトヘイトのもとで差別される人々、つまりアフリカ人、インド系、カラードと呼ばれた混血の人々をすべて含んでいた。そして運動の核は、法律や制度より先に、人の心にあった。何世代にもわたって劣った存在として扱われた黒人は、いつの間にか自分自身を劣ったものと見なすようになっている。その心を解き放たないかぎり、解放はありえない。「抑圧する者の手にある最も強力な武器は、抑圧される者の心である」という言葉は、こうした考えから出たものである。黒は美しい、という言い方も広まった。

ビコは「フランク・トーク(率直な話)」という筆名で、運動の機関誌に文章を書いた。のちに『俺は書きたいことを書く』という題でまとめられ、広く読まれる。1972年、政治活動に没頭するあまり成績が落ちたとして、医学部を除籍された。その後は、黒人の自助を進める地域の事業に力を注ぎ、医師のマンフェラ・ランペーレらとともに、農村の黒人のための診療所を開いた。

ビコの墓はギンズバーグ・タウンシップ(英語版)の墓地にある。(キングウィリアムズタウン)
ビコの墓はギンズバーグ・タウンシップ(英語版)の墓地にある。(キングウィリアムズタウン)Wikimedia Commons Socrammm · CC BY 3.0

政府は彼を危険視した。1973年、ビコは「禁止令」を受けた。故郷の町から出ることを禁じられ、一度に二人以上の人と会うことも、公の場で話すことも禁じられた。彼の言葉を新聞が引用することも違法になった。それでもビコは、ひそかに訪ねてくる活動家や記者と会い、運動に影響を与え続けた。

1976年6月、ヨハネスブルグ郊外の黒人居住区ソウェトで、アフリカーンス語での授業を押しつけられることに抗議した中高生たちのデモに警官隊が発砲し、多くの子どもが殺された(ソウェト蜂起)。蜂起は全国に広がった。立ち上がった若者たちの多くは、黒人意識運動の考えの中で育った世代だった。

ソウェト蜂起に関わる図版:Mbuyisa Makhubu carries Hector Pieterson at Soweto Uprising
ソウェト蜂起Wikimedia Commons Sam Nzima · Public domain

1977年8月18日、ビコは禁止令を破って町を出たところ、検問で捕らえられた。テロ防止法のもとで、裁判も無しに拘禁され、港町ポートエリザベスの治安警察の建物に移された。9月6日から7日にかけての取り調べの最中、彼は頭に重い打撃を受けた。警官たちは、彼が暴れたので揉み合いになったと主張した。ビコは裸のまま手足を鎖でつながれ、意識の混濁した状態で放置された。医師たちは異常に気づきながら、警察の言い分に従った。9月11日、彼は裸のまま警察の車の荷台に乗せられ、1100キロ以上離れたプレトリアの刑務所病院まで運ばれた。翌12日、独房の床の上で、一人で死んだ。30歳だった。

司法大臣は当初、ハンガーストライキによる死だと発表し、「何とも思わない」と言い放った。だが、友人の白人記者ドナルド・ウッズらが遺体の傷を写真に撮って世界に伝えた。検視の審問は警察の責任を問わなかったが、国際社会の怒りは大きく、この年の11月、国連の安全保障理事会は南アフリカへの武器の禁輸を義務として決議した。ウッズはその後、国外へ逃れ、ビコとの交友を本に書いた。それをもとにした映画『遠い夜明け』や、歌手ピーター・ガブリエルの歌「ビコ」が、その名を世界に広めた。

1990年代、アパルトヘイトは終わった(アパルトヘイトの終結)。過去の人権侵害を明らかにするために作られた真実和解委員会に、ビコの取り調べに関わった元警官5人が、真実を語る代わりに罪を許す恩赦を申し立てた。だが彼らの証言は互いに食い違い、殺意が無かったとする説明は信用されず、1999年に恩赦は退けられた。その後、証拠が足りないとして、誰も起訴されなかった。

アパルトヘイトの終結に関わる図版:F.W. de Klerk, left, the last president of apartheid-era South Africa, and Nelson Mandela, his successor, wait to speak
アパルトヘイトの終結Wikimedia Commons Carol M. Highsmith · Public domain

ネルソン・マンデラは、ビコを南アフリカの解放のための火をつけた人だと讃えた。わずか30年の生涯で、彼が変えようとしたのは法律ではなく、人が自分自身を見る目だった。

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