できごと

禁酒法

Prohibition
AD1920年1月17日
重要度 5
大英帝国カナダアメリカ合衆国アメリカ合衆国デンマークメキシコDominion of NewfoundlandホンジュラスキューバグアテマラAD1920年1月17日ニューヨーク
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概要

合衆国憲法修正第18条により、酒の製造・販売・輸送が禁じられた。飲むこと自体は禁じられていない。運動を担ったのは、禁酒同盟と、女性キリスト教禁酒同盟である。背景に、酒場が政治と労働と移民の男性文化の中心にあったことと、それへの反発がある。結果は、需要が地下へ潜っただけだった。密造、密輸、そして組織犯罪。ニューヨークだけで数万の潜り酒場ができた。1933年、修正第21条で撤廃された。憲法の修正が撤廃された唯一の例である。

場所

ニューヨーク
40.71°N -74.01°E · アメリカ合衆国

本文

1920年1月17日、アメリカ全土で酒の製造・販売・輸送が禁じられた。合衆国憲法の修正第18条と、その施行のための法律が効力を持った日である。ただ、この日は突然やって来たわけではない。アメリカの禁酒運動は、それより100年近く前の19世紀初めから続いていた。

最初の担い手はプロテスタントの信仰だった。19世紀前半の信仰復興の波の中で、飲酒は罪や堕落と結びつけて語られるようになった。しかし運動を本当に押し上げたのは女性たちである。1873年から翌年にかけて、オハイオ州で「女性の十字軍」と呼ばれる運動が起きた。女性たちが酒場の前に集まって祈り、賛美歌を歌い、店が閉まるまで立ち去らなかった。数か月のうちに多くの酒場が店を閉じた。1874年には女性キリスト教禁酒同盟が生まれ、のちにフランシス・ウィラードがその指導者になった。

薬用酒の処方箋
薬用酒の処方箋Wikimedia Commons Public domain

なぜ女性だったのか。当時、結婚した女性の多くは自分の財産をほとんど持てなかった。夫が給料を酒場で使えば家族は食べられず、夫が酔って暴力をふるっても離婚は難しかった。酒場は女性が入れない場所で、そこで家の金が消えていった。女性キリスト教禁酒同盟は禁酒だけでなく、女性の参政権や労働条件の改善も掲げた。禁酒と女性の権利は、この時代には同じ運動の中にあった。

1893年には反酒場連盟が生まれた。こちらは禁酒だけを掲げ、それを支持する候補者を党派を問わず応援し、反対する議員を落選させる。一つの争点に絞って議員を動かす、現代の圧力団体のやり方の早い例とされる。資金を出す実業家もいた。ヘンリー・フォードは、酔った労働者では工場が回らないと禁酒を支持し、ロックフェラー家も反酒場連盟に多額の寄付をした。

もう一つの力は、移民への反感だった。酒場はアイルランド系やドイツ系、イタリア系など、移民の男たちの社交の場だった。ビールの醸造業はドイツ系の企業が中心を占めていた。1917年にアメリカがドイツに宣戦すると(第一次世界大戦)、反ドイツの空気がそのままビールへの反感になった。戦時の穀物の節約も口実になった。これが最後の一押しになったと見る歴史家は多い。

第一次世界大戦に関わる図版:Bataille de Verdun 1916
第一次世界大戦Wikimedia Commons Collection DocAnciens/docpix.fr · Public domain

1917年12月、連邦議会が修正第18条を可決した。1919年1月16日、必要な数の州の批准がそろった。同年10月、施行のための法律が、ウィルソン大統領の拒否権を覆して成立した。提案した議員の名をとってヴォルステッド法と呼ばれる。この法律は、アルコール分0.5パーセント以上を「酒」と定めた。ビールもワインも含まれる、極めて厳しい線だった。条文を実際に練ったのは反酒場連盟の幹部だったとされる。

禁じられたのは、作ること、売ること、運ぶことである。飲むことそのものは禁じられていない。発効の前に買い込んでおいた酒を家で飲むのは合法だった。裕福な人々は大量に買いだめをし、ニューヨークのある会員制クラブは何年分もの酒を地下に蓄えたと伝えられる。抜け道もあった。医師は薬としてウイスキーを処方でき、処方箋は大きく増えた。宗教の儀式に使うぶどう酒も認められた。ぶどうの濃縮果汁を固めたものも売られ、「水に溶かして放っておくと発酵してワインになるので注意」という意味の注意書きが付いていた、という話が残っている。家庭で果汁を発酵させることは黙認され、カリフォルニアのぶどう畑はこの時代にかえって広がった。

「しらふが正常」と書かれたソ連の切手
「しらふが正常」と書かれたソ連の切手Wikimedia Commons Scanned and processed by Andrei Sdobnikov · Public domain

需要は消えなかった。地下へ潜っただけである。山の中では密造酒が蒸留された。工業用のアルコールに香料を混ぜて、ジンに見せかけたものも出回った。品質を管理する者はいない。メタノールの混じった酒で目を失い、命を落とす人が相次いだ。1930年には、薬として売られていたしょうがの抽出液に混ぜ物がされ、それを飲んだ数万人の足が麻痺する事件も起きた。

政府の側も危うい手を使った。工業用アルコールは飲めないように、もともと不快な物質を加えてあったが、1926年末から政府はより毒性の強い物質を加えるよう求めた。密造業者はそれを抜こうとしたが、失敗すれば飲んだ者が死ぬ。ニューヨーク市の検死官チャールズ・ノリスはこれを厳しく批判した。この方針による死者を1万人ほどとする推計もあるが、数え方には幅がある。

1928年に禁酒令が撤回されてから初めて贈られてきた酒
1928年に禁酒令が撤回されてから初めて贈られてきた酒Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

酒は国境の外からも入ってきた。カナダからはデトロイト川を越えて運ばれ、冬には凍った川の上を車が走った。カリブ海からは船が来て、領海のすぐ外に停泊し、そこへ小舟が買いに行った。町には「潜り酒場」ができた。中では声を落として話せと言われたことから、英語で「スピークイージー」と呼ばれたとされる。ニューヨークだけで2万から10万軒と言われ、禁酒法の前の酒場の数を上回ったとも言われる。合法の酒場は男たちの場所だったが、違法の酒場にはそうした決まりがなく、女性も客になった。髪を短く切り、膝丈のスカートで酒を飲む若い女性たちの姿は、この時代のジャズの最初のレコード以来のジャズの流行とともに、1920年代の象徴になった。

取り締まる側の力は、まるで足りなかった。連邦の禁酒取締官は全国でわずか千数百人から数千人ほどで、給料は安く、買収の誘いはいくらでもあった。国境と海岸線はあまりに長い。取締官の中には、変装して潜り酒場に入り込み、次々と摘発して名を上げた者もいたが、それは例外だった。州によっては取り締まりに熱心でなく、ニューヨーク州は1923年に州独自の禁酒法を廃止してしまった。法は国中に及んでいたが、その守られ方は町によって大きく違った。

1925年、カナダ・エルクレイクでの密造酒の警察による押収
1925年、カナダ・エルクレイクでの密造酒の警察による押収Wikimedia Commons Archives of Ontario, C.H.J. Snider fonds, Reference Code F 1194 S 15000, I0015265. · Public domain

最大の帰結は、組織犯罪の成長である。密造と密輸と流通を、暴力で縄張りを守るギャングが握った。シカゴのアル・カポネはその代表で、年に数千万ドルを稼いだとも言われる。1929年の聖ヴァレンタインデーには、敵対する一味の7人が警官に扮した男たちに機関銃で撃ち殺された。カポネを殺人の罪で裁くことはできず、1931年に脱税の罪で懲役11年の判決が下った。禁酒法のあいだに、ギャングは全国にまたがる組織へ育ち、法が終わった後は賭博などの別の商売へ移っていった。警官や検察官、政治家の買収も広く行われた。

1929年、世界恐慌が始まると、議論の向きが変わった。所得税ができる前は、酒税は連邦政府の大きな財源だった。不況で税収が足りないとき、酒を合法にすれば税が入り、醸造や流通の仕事も生まれる。法が公然と破られ続けていることが、法そのものへの信頼を損なっているという声も強まった。フーヴァー大統領が置いた調査委員会は1931年、取り締まりがうまくいっていないことを認める報告を出しながら、結論では禁酒法の維持を勧めるという、ちぐはぐな答えを出した。かつて禁酒に寄付したロックフェラー家の中からも、廃止を支持する者が出た。

世界恐慌に関わる図版:Unemployed men queued outside a depression soup kitchen opened in Chicago by Al Capone, 02-1931 - NARA - 541927
世界恐慌Wikimedia Commons Unknown author Unknown author or not provided · Public domain

1932年の大統領選挙で、フランクリン・ローズヴェルトは禁酒法の廃止を掲げて当選した。翌1933年4月、まずアルコール分の低いビールが合法になった。そして1933年12月5日、修正第18条を取り消す修正第21条の批准が成った。合衆国憲法の修正条項が、別の修正によって取り消された唯一の例である(アメリカ合衆国憲法の制定)。全国の禁酒は、13年あまりで終わった。ただし酒をどう扱うかは州に委ねられ、その後も禁酒を続けた州や郡があった。

禁酒法が何をもたらしたかの評価は、いまも分かれる。飲酒量は実際に減り、廃止の後もしばらく元の水準に戻らなかったとする研究や、肝硬変による死亡が減ったとする研究がある。一方で、組織犯罪を育て、汚職を広げ、質の悪い酒で多くの死者と障害者を出し、税収を失った。需要のあるものを法で禁じると何が起きるのか。禁酒法は、麻薬や賭博の規制をめぐる議論で、いまも繰り返し持ち出される先例である。

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