ウルンディの戦い

概要
イサンドルワナの半年後、方陣とガトリング砲で王都の前のズールー軍が崩れた。王は捕らえられ、王国は13に分割される。
場所
-28.34°N 31.42°E · 南アフリカ・クワズール・ナタール州
関わった人(1)
ケチワヨAD1826年頃–AD1884年2月8日 · ズールー王。捕らえられた本文
1870年代、南部アフリカのイギリスは、ケープ植民地(ケープ植民地の設置)やナタール、ボーア人の共和国、アフリカ人の王国が入り混じるこの地域を、一つの連邦にまとめようとしていた。ダイヤモンドの鉱山が見つかり、この地の値打ちが急に上がったことも背景にあった。その計画の前に立ちはだかったのが、ナタールの北東に広がるズールー王国だった。19世紀の初めにシャカ・ズールーが築き上げた(ズールー王国の勃興)この王国は、年齢ごとに編成された強力な軍を持っていた。
1878年12月、南アフリカ高等弁務官のバートル・フレアは、ズールー王ケチワヨに、軍の解体を含む受け入れようのない要求を突きつけた。ロンドンの本国政府は戦争を望んでいなかったが、フレアは返事を待たずに軍を動かした。1879年1月、チェルムスフォード卿の率いるイギリス軍が、三つの道からズールーの地へ攻め込んだ。
1月22日、イサンドルワナの丘の下で野営していたイギリス軍の一隊が、2万ほどのズールー軍に急襲された(イサンドルワナの戦い)。槍と牛皮の盾を主な武器とするズールーの戦士たちは、角のように左右に広がって包み込む得意の陣形で攻め寄せ、イギリス兵とアフリカ人の兵、合わせて1300人ほどを倒した。近代的な銃を持つヨーロッパの軍が、アフリカの軍に正面から敗れたこの知らせは、イギリスに大きな衝撃を与えた。

イギリスは兵を増やし、今度は用心して進んだ。夜には荷車を並べて陣を囲み、塹壕を掘った。春から初夏にかけて、イギリス軍はゆっくりと王都へ迫った。そのさなかの6月1日には、イギリス軍に同行していたフランスの元皇帝ナポレオン3世の息子が、偵察中にズールーの兵に襲われて命を落とし、ヨーロッパを驚かせた。
チェルムスフォードには急ぐ理由もあった。イサンドルワナの責任を問われ、本国からは後任の司令官ウルズリーが送られてきていた。後任が着く前に勝って、汚名をそそぎたかった。ケチワヨは和平を求める使いを何度も送ったが、イギリス側は応じなかった。

7月4日の朝、イギリス軍は白い川(ムフォロジ川)を渡り、王都ウルンディ(オンディニ)の手前の平原に進んだ。兵は5000人あまり。チェルムスフォードは、荷車の陣を作らず、平原の真ん中で兵を大きな方陣に組ませた。四つの辺に歩兵を何列にも並べ、角と辺の間に大砲とガトリング砲(手回しで弾を連射する初期の機関銃)を置き、内側には騎兵や負傷者の手当ての者を入れた。開けた平地で、方陣の火力だけでズールー軍を打ち破ってみせるつもりだった。
ズールー軍は、1万2千から2万ほどと見積もられる。戦士たちは方陣を四方から囲み、得意の陣形で一斉に突進した。だが、開けた平原で、近づくまでの間に浴びせられるライフルと大砲、ガトリング砲の弾幕は凄まじかった。方陣の数十メートル手前までたどり着いた隊もあったが、そこで倒れた。戦いは30分あまりで決した。ズールー軍が崩れると、方陣の中から騎兵が飛び出して、逃げる兵を追った。

ズールー側の死者は千人を超えたと推定される。イギリス側の戦死者は十数人にすぎなかった。イギリス軍は王都に火を放ち、王の住まいも、戦士たちの宿営も焼け落ちた。イサンドルワナで負けた相手に、銃火の力の差をはっきりと見せつける戦いになった。
ケチワヨは森へ逃れたが、8月の末に捕らえられた。後から着いたウルズリーは、ズールー王国を13の首長国に分けた。首長には、王家に反感を持つ者や、ズールーの地に住みついた白人の猟師ジョン・ダンまでが選ばれた。強い王国が二度とまとまらないよう、互いに争わせるための分割だったとみられている。じっさい首長たちはまもなく争い始め、ズールーの地は内戦に陥った。

ケチワヨはケープタウンに幽閉されたが、自分の国の窮状をイギリスの世論に訴え続けた。1882年にはロンドンを訪れることを許され、ヴィクトリア女王に会った。ズールーの伝統の服ではなく洋服で現れた王を見ようと、宿の前には群衆が集まり、新聞は好意的に書き立てた。イサンドルワナの敵将が、人気者になっていた。
翌1883年、ケチワヨはズールーの地の一部に王として戻された。だが、分割の間に育った対立は深く、すぐに敵対する首長との戦いに敗れ、1884年に死んだ。毒殺されたとも言われる。1887年、ズールーの地はイギリスに併合され、のちにナタールに組み込まれた。南アフリカでは、その後も金の発見を背景に、イギリスとボーア人の対立が深まっていく(ボーア戦争)。ウルンディの平原は、アフリカの王国が近代の兵器の前に屈していく、アフリカ分割の時代の始まりを告げる場所の一つになった。