できごと

世界保健機関の設立

The founding of the WHO
AD1948年4月7日
重要度 4
ソビエト連邦大英帝国デンマークアルジェリアスーダンポルトガル帝国サウジアラビアイランチャドマリニジェールエジプトモーリタニアトルコCyraneica (UK Lybia)スウェーデンノルウェーフランスフィンランドスペインFezzan (Frech Lybia)イラクポーランドモロッコイタリアイギリスYugoslaviaルーマニア西サハラTripolitana (UK Lybia)シリアアイスランドCzechoslovakiaチュニジアGermany (Soviet)ブルガリアドイツ(イギリス占領地区)ドイツ(アメリカ占領地区)ハンガリーギリシャオーストリアアイルランドヨルダンAD1948年4月7日ジュネーヴ
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概要

国際連合の専門機関として発足した。憲章の前文に、いまも引かれる定義がある。「健康とは、単に病気や虚弱でないということではなく、身体的・精神的・社会的に完全に良好な状態である」。そして「到達しうる最高水準の健康を享受することは、すべての人間の基本的権利の一つである」。天然痘の根絶(1980年宣言)を成し遂げ、ポリオを追い、結核とマラリアと戦い、そして加盟国の政治と予算に絶えず縛られてきた。

場所

ジュネーヴ
46.20°N 6.14°E · スイス(CERN・国際機関)

本文

病気が国境を越えて協力する理由になったのは、19世紀のことである。きっかけはコレラだった。インドのベンガル地方の風土病だったコレラは、1817年から世界中に広がり、19世紀のうちに何度も大流行を繰り返した。蒸気船と鉄道が、人と一緒に病を速く遠くへ運ぶようになっていた。日本にも幕末に安政のコレラが及んでいる。

各国は港で検疫を行ったが、何日止めるか、どの船を調べるかは国ごとにばらばらで、貿易の大きな妨げになった。1851年、パリで最初の国際衛生会議が開かれ、12か国が集まった。だが、コレラがどうやってうつるのかさえ合意できなかった。病は悪い空気から生まれるという考えがまだ強く、ロベルト・コッホがコレラ菌を見つけて細菌が病を起こすという説を固めるのは、1883年になってからである。会議はその後も何度も開かれ、少しずつ検疫の取り決めが作られていった。

20世紀に入ると、保健の国際機関が生まれる。1902年、アメリカ大陸の国々は汎米衛生局を作った。いまも続く、最も古い国際保健機関である。1907年にはパリに国際公衆衛生事務局が置かれた。第一次世界大戦のあとには、国際連盟が発足すると(国際連盟の発足)、その保健機関がジュネーヴで活動を始め、伝染病の情報を集めたり、薬の基準をそろえたりした。終戦の前後に世界を襲ったスペイン風邪は、数千万人の命を奪い、国境を越える病の恐ろしさを改めて見せつけた。

スペイン風邪に関わる図版:Emergency hospital during Influenza epidemic, Camp Funston, Kansas - NCP 1603
スペイン風邪Wikimedia Commons Otis Historical Archives, National Museum of Health and Medicine · Public domain

第二次世界大戦が終わると、これらをまとめる新しい機関を作る話が持ち上がった。1945年、サンフランシスコで国際連合を作る会議が開かれたとき(国際連合の成立)、国連憲章の案には保健のことがほとんど書かれていなかった。ブラジルと中国の代表が、保健のための国際機関を作ることを提案し、それが受け入れられた。1946年7月22日、ニューヨークで61か国が世界保健機関の憲章に署名した。1948年4月7日、批准した国が26か国に達して憲章が効力を持ち、世界保健機関(WHO)が国連の専門機関として発足した。本部はジュネーヴに置かれ、4月7日はいま「世界保健デー」になっている。

憲章の前文には、いまもよく引かれる言葉がある。健康とは、単に病気や虚弱でないことではなく、身体的にも精神的にも社会的にも完全に満たされた状態である。そして、到達できる最高水準の健康を享受することは、人種、宗教、政治的な信条、経済的・社会的な条件の違いにかかわらず、すべての人の基本的な権利の一つだ、という。健康を個人の運ではなく権利として、そして国の責任として書いたことは画期的だった。一方で、「完全に満たされた状態」では誰も健康ではないことになる、という批判も、繰り返し寄せられてきた。

WHO神戸センター
WHO神戸センターWikimedia Commons 663highland · CC BY 2.5

WHOの最大の成果は、天然痘の根絶である。1796年のジェンナーの種痘以来、ワクチンはあったが、天然痘は1960年代になっても毎年1000万人以上がかかり、200万人ほどが死んでいたとされる。1958年、ソ連の代表が根絶の計画を提案し、1967年から集中的な計画が始まった。全員にワクチンを打つのではなく、患者を見つけたらその周りの人々に集中して接種し、感染の輪を断つという方法がとられた。1975年、バングラデシュの3歳の少女が、重い型の天然痘に自然にかかった最後の患者になり、1977年にはソマリアの病院の調理人が軽い型の最後の患者になった。1980年5月、世界保健総会は天然痘の根絶を宣言した(天然痘の根絶宣言)。人間の病気で根絶できたのは、いまもこれだけである。

WHOの仕事は、目立たないところにも広がっている。限られた予算でどの薬をそろえるべきかを示す必須医薬品の一覧(1977年から)は、多くの国の医薬品政策の基準になった。病名や死因を世界共通の言葉で数える国際疾病分類も、WHOが管理している。1978年には、いまのカザフスタンのアルマ・アタで、身近な場所で基本的な医療を受けられるようにする考えを掲げた宣言をまとめた。1988年からはポリオの根絶に取り組み、患者の数を大きく減らしたが、まだ根絶には至っていない。2003年には、WHOが作った初めての条約として、たばこの規制に関する条約が採択された。

その一方で、WHOは加盟国の集まりであり、加盟国の政治と資金に縛られている。予算の大部分は、使い道を指定された任意の拠出金で、資金を出す国や民間の財団の優先順位が、事業の中身を左右する。批判を受けた場面も多い。2009年の新型インフルエンザでは、世界的な大流行の宣言が早すぎたのではないかと問われた。2014年の西アフリカのエボラ流行では、初動の遅れを内部の報告書も認めた。2020年からのCOVID-19の世界的流行では、中国への配慮や初期の情報の扱いをめぐって批判を浴び、アメリカは脱退を通告した。その通告はいったん撤回されたが、アメリカは2025年に再び脱退を表明し、翌年に脱退した。

西アフリカのエボラ流行に関わる図版:2014 ebola virus epidemic in West Africa simplified
西アフリカのエボラ流行Wikimedia Commons ZeLonewolf · CC0

それでも、感染症の情報を国境を越えて集め、共有し、各国に対策を勧める場は、ほかに無い。2005年に改められた国際保健規則で、加盟国は国際的に懸念される公衆衛生上の緊急事態になりうる出来事を報告する義務を負った。2025年には、次の大流行に備える協定も採択されている。病気は国境で止まらない、という19世紀の港の検疫官たちの悩みは、いまも形を変えて続いている。

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