フランス革命

概要
身分制を壊し、国民が主権を持つという考えを現実にした。恐怖政治も同じ革命が生んだ。
場所
48.86°N 2.35°E · フランス
関わった人(5)
ルイ16世AD1754年8月23日–AD1793年1月21日 · 王マリー・アントワネットAD1755年11月2日–AD1793年10月16日 · 王妃ジャン=ジャック・ルソーAD1712年6月28日–AD1778年7月2日 · 思想の元マクシミリアン・ロベスピエールAD1758年5月6日–AD1794年7月28日 · のちに恐怖政治を主導するナポレオン・ボナパルトAD1769年8月15日–AD1821年5月5日 · この混乱から台頭する本文
18世紀のフランスは、ヨーロッパで最も人口の多い、豊かな王国だった。だが国家の財布は空だった。七年戦争、そしてアメリカ独立宣言で始まったアメリカ独立戦争への支援で、借金が膨れ上がっていた。1780年代の終わりには、借金の利払いだけで国の支出の半分近くを占めていたとされる。それでいて、人口のごく一部にすぎない聖職者と貴族は、多くの税を免れていた。
国王ルイ16世の財務長官たちは、特権身分にも税を負担させようとした。だが貴族たちは、新しい税を決めるには身分ごとの代表が集まる三部会を開くべきだと主張して抵抗した。1788年には天候不順で凶作となり、パンの値段が跳ね上がった。追い詰められた王は、課税のために175年ぶりに三部会を開いた。1789年5月のことである。
始まった時点で、王政を倒す計画があったわけではない。争いは、議決を身分ごとに一票とするか、議員一人ずつ一票とするかで始まった。人口の大多数を代表する第三身分の議員たちは、自分たちこそ国民の代表だとして国民議会を名乗り、憲法を作るまで解散しないと誓った。王が軍をパリの周りに集めると、民衆は武器を求めて、7月14日、バスティーユ監獄を襲った。その夏、農村では、領主の館が襲われ、封建的な負担の記録が焼かれた。8月4日の夜、議会は領主の特権の廃止を決め、8月26日には人権宣言を採択した。

人権宣言は、その第1条で、人は自由で権利において平等なものとして生まれ、存在する、と書いた。主権は国民にある、とも書いた。思想の元には、ジャン=ジャック・ルソーをはじめとする啓蒙思想家たちの考えがあった。ただし、その「人」に女性は含まれていなかった。1791年、劇作家のオランプ・ドゥ・グージュは『女性および女性市民の権利宣言』を書き、女性にも同じ権利をと訴えたが、1793年に処刑されている。
10月には、パンの値上がりに怒ったパリの女性たちが、雨の中をヴェルサイユまで行進した。群衆に押されて、王の一家はパリのテュイルリー宮殿に移された。それ以後、王は民衆の目の届くところで暮らすことになる。教会の財産は国に没収され、聖職者は国家への忠誠を誓わされた。これに従わない聖職者と、敬虔な信者たちの反発は、のちの内乱の火種になった。

立憲君主政で収まる可能性は何度もあった。1791年、王は憲法を受け入れる国王になるはずだった。ところがその年の6月、王一家は変装してパリを脱出し、国境に近いヴァレンヌで見つかって連れ戻された。国民を見捨てて外国に逃れようとした王を、人々はもう信じなかった。
戦争が、革命を先へ押した。1792年4月、フランスはオーストリアに宣戦した。敵国から嫁いできた王妃マリー・アントワネットは、敵と通じていると疑われた。戦況が悪化するなか、8月、パリの民衆と義勇兵が王宮を襲い、王権は停止された。9月には、共和政が宣言された。1793年1月、ルイ16世は国民公会の裁判にかけられ、ギロチンで処刑された(ルイ16世の処刑)。王妃もその年の10月に処刑される。

外ではヨーロッパの君主国が次々にフランスと戦い、内では西部のヴァンデ地方で、徴兵と教会への締め付けに反発した農民が大規模な反乱を起こした。共和国を守るためとして、国民公会の公安委員会に権力が集められた。その中心にいたのがマクシミリアン・ロベスピエールである。革命の敵とされた人々が次々に裁かれ、正式な裁判で処刑された者だけで1万数千人にのぼった(恐怖政治)。獄死した者や裁判を経ずに殺された者、ヴァンデの反乱の鎮圧で死んだ人々を含めれば、犠牲ははるかに多い。徳による共和国を説いた男が、恐怖を道具にした。恐怖政治も同じ革命が生んだ。
1794年7月、テルミドール(革命暦の熱月)9日、ロベスピエールは国民公会で逮捕され、翌日処刑された。自分たちも次に処刑されるのではないかと恐れた議員たちが手を組んだのである。その後の総裁政府は不安定で、政治家たちは軍の力に頼るようになった。
奴隷制も、廃止と復活を往復した。カリブ海の植民地サン=ドマングで奴隷たちが蜂起すると(ハイチ革命)、国民公会は1794年、植民地の奴隷制の廃止を決めた。だが1802年、ナポレオンはこれを復活させる。フランスで奴隷制が最終的に廃止されるのは1848年のことになる。一方で、ユダヤ人に市民権を与え、度量衡を統一してメートル法を作り、離婚を認めるなど、革命は社会の隅々に手を入れた。

イタリアとエジプトの遠征で名を上げた若い将軍ナポレオン・ボナパルトが、1799年11月、クーデターで権力を握った。革命が始まってから10年だった。ナポレオンはやがて、1804年に皇帝になる。王を殺した革命が皇帝を生んだ。
それでも、身分によって法が違うという仕組みは戻らなかった。ナポレオンが1804年に公布したナポレオン法典は、法の前の平等と、所有権の保障を定め、その軍とともにヨーロッパ各地に広まった。ナポレオンが倒れたあと、フランスには王が戻ってきたが、領主の特権も、身分ごとの税も戻らなかった。国民が主権を持つという考えも、自由と平等という言葉も、一度口にされたあとは消せなかった。革命の評価は、それから200年以上たった今も、フランスの中で割れ続けている。