アポマトックスの降伏

概要
リー将軍の北ヴァージニア軍は2万8000に減って、食糧がなかった。マクリーンの家の居間で、リーは正装で、グラントは泥のついた兵卒の服で会った。降伏の条件:武器を置いて帰れ、馬は持って帰ってよい、春の耕作に要る。逮捕しない。北軍の兵が祝砲を撃ち、グラントが止めた。「彼らはまた我々の同胞だ」。5日後、リンカーンが撃たれた。
場所
37.38°N -78.80°E · アメリカ・ヴァージニア州
関わった人(2)
ユリシーズ・グラントAD1822年4月27日–AD1885年7月23日 · 受けたロバート・E・リーAD1807年1月19日–AD1870年10月12日 · 降伏した本文
1865年4月9日、ヴァージニア州の小さな村アポマトックス・コート・ハウスで、南部連合の最強の軍、北ヴァージニア軍の司令官ロバート・E・リーが、北軍の総司令官ユリシーズ・グラントに降伏した。4年にわたる南北戦争で、南部の希望を最後まで支えてきた軍が武器を置いたこの日が、事実上の戦争の終わりとされる。会見の場は、ある民家の居間だった。
その前の10か月、リーの軍は南部の首都リッチモンドの南、ピーターズバーグの塹壕にこもって、グラントの大軍を食い止めていた。だが兵は脱走と病で減り、食べ物も靴も尽きかけていた。1865年4月2日、北軍はついにピーターズバーグの防衛線を破った。リーはリッチモンドを捨てて西へ退くよう、南部連合のデイヴィス大統領に知らせた。南へ回り込み、ノースカロライナで戦っているジョンストンの軍と合流するつもりだった。

逃げる南軍を、北軍は休みなく追った。リーは補給の列車をアメリア・コート・ハウスに待たせていたが、届いていたのは弾薬ばかりで、食糧はなかった。兵たちは飢えたまま歩き続けた。4月6日、セイラーズ・クリークの戦いで、リーは軍のおよそ4分の1を失い、数千人が捕虜になった。次の補給の列車がアポマトックスの駅に着いていたが、先回りしたシェリダンの騎兵隊がそれを奪った。行く手もふさがれ、リーの軍は数倍の北軍に囲まれた。
4月7日、グラントはリーに手紙を送った。これ以上の抵抗が無益であることは明らかで、さらに流れる血の責任から逃れたいので、降伏を求める、という内容だった。リーはすぐには応じず、降伏の条件を尋ね返した。4月9日の夜明け、南軍は最後の突破を試みたが、前方に北軍の歩兵の大部隊が現れると、望みは消えた。リーは側近に、グラント将軍に会いに行くほかない、千回死ぬほうがましだが、と語ったと伝えられる。若い士官の中には、山に散ってゲリラとして戦い続けようと言う者もいたが、リーはそれを退けた。国土を果てしない無法の戦場にすることになる、というのが理由だった。

会見の場に選ばれたのは、村に住む商人ウィルマー・マクリーンの家だった。マクリーンは開戦の年の1861年、ヴァージニア北部のマナサスに住んでいたが、最初の大きな戦いで自分の農場が戦場となり、砲弾が家に飛び込んだ。静かな土地を求めてこの村へ移ってきたのに、戦争の最後の場面がまた自分の家にやってきたのである。戦争は私の玄関先で始まり、私の居間で終わった、と彼が語ったという話が伝わっている。
午後1時半ごろ、リーが先に着いた。新しい灰色の礼装に、飾りのついた剣を下げていた。少し遅れて現れたグラントは、泥はねのついた兵卒用の上着に将軍の肩章を付けただけで、剣も持っていなかった。前線から馬で駆けつけ、着替える間もなかったのである。二人は20年近く前の米墨戦争で、ともにアメリカ陸軍の士官として戦っていた。グラントがその頃の思い出を話し始めると、リーは穏やかに、今日の用件である条件の話へ戻した。

グラントが書いた条件は寛大だった。士官と兵は、二度と合衆国に武器を向けないと誓えば、そのまま家に帰ってよい。武器と軍の装備は引き渡すが、士官は自分の拳銃と剣、私物の馬を持ち帰ってよい。法を守って暮らす限り、合衆国の当局は彼らを罪に問わない、とも書いた。これで反逆の罪で裁かれる心配はなくなった。リーは、これは兵たちにとって大きな励みになるだろうと言い、南軍では兵卒も自分の馬で戦っている者が多いことを伝えた。グラントは条件の文面は変えなかったが、馬やラバを持っている者は連れて帰らせるよう部下に指示すると約束した。春の耕作に要るだろうから、というのがその理由だった。グラントはさらに、飢えていた南軍の兵のために、2万5千人分の食糧を送らせた。
会見を終えたリーが馬にまたがって去るとき、グラントは帽子をとって敬意を表した。やがて北軍の陣地から勝利を祝う大砲の音が上がり始めると、グラントはそれをやめさせた。戦争は終わった、反乱者たちはまた我々の同胞だ、というのが彼の言葉だった。翌日、リーは兵たちに別れの言葉を出し、圧倒的な数と物量の前に屈するほかなかったと述べて、彼らの忠誠と献身をたたえた。

4月12日、南軍の兵たちは隊列を組んで村に入り、武器と軍旗を置いた。迎えた北軍のチェンバレン将軍は、部下に命じて捧げ銃の礼で彼らを迎え、南軍のゴードン将軍も剣を下げてそれに応えた。敵として4年戦った者どうしの、静かな敬礼の交換だった。この日、およそ2万8千人の南軍兵が釈放の書類を受け取った。
アポマトックスで南部連合のすべてが降伏したわけではない。ジョンストンの軍は4月26日に降伏し、残りの部隊も5月から6月にかけて次々に武器を置いた。だが南部の人びとにとって、リーの降伏は戦争の終わりを意味していた。

その喜びは長く続かなかった。5日後の4月14日、首都ワシントンのフォード劇場で、エイブラハム・リンカーン大統領が南部びいきの俳優ブースに撃たれ、翌朝死んだ。リンカーンは、南部を罰するより早く連邦に戻すことを望み、グラントの寛大な条件もその考えに沿ったものだった。彼の死によって、戦後の南部の再建は、より厳しい処置を求める議会の主導と、それに抵抗する南部との激しい争いになっていく。
戦争の死者は兵だけで62万人とされてきたが、近年は75万人前後とする推計もある。奴隷制は奴隷解放宣言を経て、1865年12月の憲法の修正で全国で廃止された。アポマトックスの寛大な降伏は、国を再び一つにするための和解の象徴として語られてきた。その一方で、南部の白人の名誉を重んじたこの和解が、解放された黒人の権利を後回しにする道にもつながった、と指摘する歴史家もいる。マクリーンの家は一度取り壊されたが、のちに元の姿に建て直され、今は国立歴史公園の中で、二人の将軍が向き合った居間を見せている。