できごと

山崎の戦い

Battle of Yamazaki
AD1582年7月2日(天正10年6月13日)
重要度 5
ロシア帝国スペイン帝国明チベットイスラムとヒンドゥーの諸国Koryaks日本シャン諸邦大越朝鮮王朝Itelmen大越ビルマの諸王国カンボジアアユタヤ朝ラオスアイヌモシリPeguAD1582年7月2日(天正10年6月13日)山崎
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概要

本能寺の11日後。備中高松で毛利と対していた秀吉が、和睦して、200キロを10日で戻った(中国大返し)。天王山の麓で、秀吉4万、光秀1万6000。細川も筒井も光秀に来なかった。光秀は坂本へ逃げる途中、小栗栖で落ち武者狩りの竹槍に刺された。「三日天下」。秀吉が信長の後継の位置に立った。

場所

山崎
34.89°N 135.68°E · 京都府大山崎町

関わった人(2)

豊臣秀吉AD1537年–AD1598年 · 大返し明智光秀AD1528年頃–AD1582年7月2日(天正10年6月13日) · 負けた

本文

1582年6月13日(西暦では7月2日)、京都の南西、天王山と淀川に挟まれた山崎の狭い土地で、豊臣秀吉の軍が明智光秀の軍を破った。主君の織田信長を本能寺で討ってから、わずか11日。光秀はその夜、逃げる途中で命を落とし、秀吉は信長の後を継ぐ者の位置に一気に躍り出た。

6月2日の早朝、光秀は京の本能寺に泊まっていた信長を襲い、続いて二条御所に立てこもった信長の長男信忠も討った(本能寺の変)。光秀がなぜ謀反を起こしたのかは、怨恨、天下への野心、四国の長宗我部氏をめぐる政策の対立、朝廷や足利義昭の関与まで、いまも諸説ある。いずれにせよ、光秀は謀反の後の味方作りに追われた。5日には信長の居城だった安土城に入り、城の金銀を家臣に分け与えた。9日には京に入り、朝廷に銀を献じ、京の寺社にも銀を贈って支持を求めた。

本能寺の変に関わる図版:Honnoj
本能寺の変Wikimedia Commons Nobukazu Yōsai · Public domain

光秀が最も頼りにしたのは、丹後の細川藤孝と、大和の筒井順慶だった。藤孝の嫡男忠興の妻は光秀の娘の玉(のちのガラシャ)で、順慶も光秀の与力として近い関係にあった。しかし藤孝は髻を切って信長の喪に服し、光秀には応じなかった。光秀が藤孝父子に宛てた手紙が残っており、そこでは、自分が謀反を起こしたのは忠興らを取り立てるためで、50日か100日のうちに近国を固めたら、あとは息子や忠興に譲って身を引く、とまで書いている。順慶も一時は兵を出す構えを見せたが、結局は大和郡山の城に籠って動かなかった。形勢を見て有利な側につくことを「洞ヶ峠を決め込む」というのは、このとき順慶が洞ヶ峠で日和見をしたという俗説から来ているが、実際に洞ヶ峠に陣を張ったのは順慶を待つ光秀の側だったとされる。

そのころ秀吉は、備中の高松城を水攻めにしていた。城の周りに堤を築いて川の水を引き入れ、城を湖に浮かぶ島にしていた。毛利輝元の援軍が城の近くまで来ていたが、手出しができずにいた。6月3日の夜から4日にかけて、本能寺の知らせが秀吉のもとに届いた。秀吉は信長の死を伏せたまま毛利と交渉を急ぎ、城主清水宗治が切腹することを条件に和睦をまとめた。4日、宗治は湖の上に小舟を漕ぎ出し、舞を舞ってから腹を切ったと伝えられる。

Japan Keihan topographic map
Wikimedia Commons Soren Bradley · CC BY 4.0

秀吉は毛利軍が引き上げるのを見届けて、6日に陣を払い東へ向かった。中国大返しである。豪雨の中を、備中から居城の姫路まで100キロ近くを、2日ほどで駆け戻った。姫路では城に蓄えた金銀と米を残らず兵に分け与えたという。9日に姫路を出て、11日には摂津の尼崎に着いた。高松から山崎まで200キロほどを、10日あまりで移動したことになる。あまりの速さに、秀吉は本能寺の変を事前に知っていたのではないかという説もあるが、確かな根拠はない。家臣の黒田官兵衛が、信長の死を嘆く秀吉に「これでご運が開けた」とささやいた、という話も後世の伝えである。

摂津に入った秀吉のもとに、摂津の池田恒興、中川清秀、高山右近らが加わった。四国攻めのために大坂にいた信長の三男信孝と重臣の丹羽長秀も合流した。秀吉軍は4万ほどにふくれ上がった。一方の光秀は、細川も筒井も来ず、兵は1万から1万6000ほどだったとされる。

旗立松(6代目)
旗立松(6代目)Wikimedia Commons 投稿者が撮影 · Public domain

光秀は、京への入り口にあたる山崎で迎え撃つことにした。西は天王山、東は淀川と湿地帯に挟まれ、大軍が一度に展開できない隘路である。光秀は円明寺川(いまの小泉川)の東側に陣を構え、秀吉軍が隘路から出てくるところを叩こうとした。

13日は雨だった。夕方、戦いが始まった。中川清秀と高山右近の隊が先に進んで天王山のふもとを押さえ、光秀方の斎藤利三らの隊と激しく戦った。やがて淀川沿いを進んだ池田恒興の隊が川を渡って光秀軍の側面を突き、光秀軍は崩れた。戦いは2、3時間ほどで決着したとされる。「天下分け目の天王山」という言い方は、天王山の奪い合いが勝敗を決めたという話から生まれたが、実際の戦いは山のふもとの平地が中心だったと考えられている。

天王山から見下ろす山崎合戦之地。現在の大山崎JCT(写真中央左)あたりを挟んで両軍が対陣したと言われている。
天王山から見下ろす山崎合戦之地。現在の大山崎JCT(写真中央左)あたりを挟んで両軍が対陣したと言われている。Wikimedia Commons 投稿者が撮影 · Public domain

光秀は近くの勝竜寺城に逃げ込んだ。城は小さく、大軍は防げない。光秀は夜のうちに城を抜け出し、近江の居城坂本を目指した。その途中、山科の小栗栖の竹藪で、落ち武者を狙う土地の者たちに竹槍で刺されたと伝えられる。光秀はその場で自害し、家臣が首を落として隠したともいう。首はのちに見つけ出されて、本能寺にさらされた。光秀の重臣斎藤利三も捕らえられ、京の六条河原で斬られた。利三の娘の福は、のちに3代将軍家光の乳母となる春日局である。

光秀の天下は、わずか11日あまりだった。短い権力を「三日天下」と呼ぶのは、ここから来ている。

山崎の戦いの前の軍議(貞秀画、19世紀)
山崎の戦いの前の軍議(貞秀画、19世紀)Wikimedia Commons Utagawa Sadahide · Public domain

山崎の戦いから2週間後の6月27日、織田家の重臣たちは尾張の清洲城に集まり、跡継ぎと領地の配分を話し合った。清洲会議である。織田家の跡継ぎには、討たれた信忠の嫡男で、まだ幼い三法師(のちの織田秀信)が決まった。秀吉が三法師を抱いて上座に座り、居並ぶ重臣たちを平伏させたという話は、のちの読み物にある逸話である。ただ、主君の仇を討った秀吉の発言力が、筆頭家老の柴田勝家をしのいだことは確かだった。

山崎は、秀吉にとって天下取りの始まりだった。翌1583年、秀吉は賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を破り、大坂城を築き始める。1590年には秀吉の天下統一を成し遂げる。信長の死から全国の統一まで、わずか8年。その最初の一歩は、雨の山崎での、2、3時間の戦いだった。

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