概要
本能寺の11日後。備中高松で毛利と対していた秀吉が、和睦して、200キロを10日で戻った(中国大返し)。天王山の麓で、秀吉4万、光秀1万6000。細川も筒井も光秀に来なかった。光秀は坂本へ逃げる途中、小栗栖で落ち武者狩りの竹槍に刺された。「三日天下」。秀吉が信長の後継の位置に立った。
場所
34.89°N 135.68°E · 京都府大山崎町
関わった人(2)
豊臣秀吉AD1537年–AD1598年 · 大返し明智光秀AD1528年頃–AD1582年7月2日(天正10年6月13日) · 負けた本文
1582年6月2日、本能寺。信長が死んだ。光秀は安土に入り、朝廷と公家に金を配り、細川藤孝と筒井順慶に手紙を書いた。細川は剃髪して喪に服し、来なかった。光秀の娘玉は細川忠興の妻だった。筒井は大和で動かず、「洞ヶ峠」の名が残った(順慶は洞ヶ峠に行っていない)。
秀吉は備中高松城を水攻めしていた。毛利の援軍が来ていた。6月3日の夜、本能寺の知らせが届いた。秀吉は毛利に知らせず、翌4日、城主清水宗治の切腹を条件に和睦した。宗治は舟の上で舞って腹を切った。6日、毛利が去ったのを確かめて、東へ。高松から姫路まで100キロを2日。姫路で全部の金と米を兵に配った。尼崎まで。11日、摂津。「中国大返し」。10日で200キロ。準備していた、と言う人がいる。
信長の三男信孝と丹羽長秀が大坂で合流した。池田恒興、中川清秀、高山右近。4万。光秀は1万6000。
6月13日、山崎。天王山と淀川の間の狭い道。雨。光秀は円明寺川で待った。秀吉の中川と高山が先に天王山の麓を取り、池田が川を渡って横を突き、光秀の軍は崩れた。斎藤利三(春日局の父)が戦い、退いた。光秀は勝竜寺城に入り、夜、坂本へ逃げる途中、小栗栖の竹藪で、落ち武者狩りの農民の竹槍に刺された。家臣が首を切って隠した。首は見つかって、本能寺に晒された。
本能寺から11日。「三日天下」は、光秀の天下が短かったことの言い方で、13日を三日にした。
清洲会議は14日後。秀吉は三法師(信忠の子、3歳)を抱いて、信長の後継者の位置に立った。