できごと

モリオリの征服

Maori invasion of the Chatham Islands
AD1835年
重要度 3
AD1835年チャタム諸島(位置は特定されていない)
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1835年の版図を描いています。

概要

争いを捨てていたモリオリを、同じポリネシア人の子孫であるマオリが数日で殺し、残りを奴隷にした。同じ祖先を環境が分けた例として、本の第2章に置かれる。

場所

チャタム諸島位置は特定されていない(誤差 ±50km)
-43.90°N -176.50°E · ニュージーランド

本文

ニュージーランドの東、およそ800キロの南太平洋に、チャタム諸島という小さな島々がある。モリオリの人びとは主な島をレコフと呼んだ。南極からの冷たい風が吹きつけ、霧が多く、木の背は低い。この島々に人が住みついたのは、ポリネシアの人びとが太平洋の島々に広がっていった最後の段階のことだった(ポリネシア人の太平洋拡散)。13世紀ごろにニュージーランドへ渡ったポリネシア人の子孫が(アオテアロアへの到達)、さらに東へ舟を出して島にたどり着いたと考えられている。時期は15世紀ごろとする説が有力だが、もっと早いとする見方もある。その後、本土との行き来は途絶えた。

ニュージーランドの北の暖かい土地で、ポリネシアの人びとはサツマイモを育てていた。しかしチャタムは寒すぎて、持ってきた作物は育たなかった。島の人びとは農耕をあきらめ、アザラシやオットセイ、海鳥、魚、貝、それに木の実やシダの根をとって暮らす狩猟採集の暮らしに戻った。島は狭く、食べ物には限りがある。人口はおよそ2000人ほどに保たれ、男の子の一部を去勢して数を抑えたという話も伝わっている。

チャタム諸島の写真(1910年)
チャタム諸島の写真(1910年)Wikimedia Commons W Rerwick · Public domain

この島々で、人びとは一つの掟を作った。伝承によれば、昔、争いが絶えなかったころ、ヌヌクという長が、殺し合いと人を食べることを禁じた。それからは、争いごとは一対一の決闘で決めることになった。棒で打ち合い、どちらかが血を流したら、そこで終わりにする。この掟は数百年にわたって守られた。島の人びとは、自分たちをモリオリと呼んだ。

1791年、イギリスの船が島を見つけ、やがてアザラシ猟の船や捕鯨船が来るようになった。持ち込まれた病気で、モリオリの数は減りはじめた。一方、本土のニュージーランドでは、ヨーロッパ人から手に入れた銃を使って、マオリの部族どうしが激しく争っていた。北島西部のタラナキから追われてウェリントン周辺に移っていた二つの部族、ンガーティ・ムトゥンガとンガーティ・タマは、新しい土地を探していた。捕鯨船の船員から、東の島には争いを知らない人びとと、アザラシと鳥がたくさんいると聞いたのである。

19世紀後半のモリオリ人
19世紀後半のモリオリ人Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

1835年の11月から12月にかけて、二つの部族のおよそ900人が、ヨーロッパの帆船を奪うようにして雇い、二度に分けて島へ渡った。銃と棍棒と斧を持っていた。上陸した人びとは島を歩き回り、土地は自分たちのものになったと宣言した。

モリオリの男たちは、およそ1000人が集まって会議を開いた。若い者たちは、数ではこちらが上回るのだから戦おうと主張した。しかし長老たちは、ヌヌクの掟を破ることはできないと説いた。会議は、戦わず、和平を申し出ることに決めた。その直後、マオリの側は攻撃を始めた。数日のうちに300人ほどが殺され、残りの人びとは奴隷にされた。ある生存者は、羊のように殺された、逃げた者も見つけ出された、と後に語っている。奴隷にされたモリオリは、モリオリどうしで結婚することを禁じられ、自分たちの言葉を話すことも許されなかった。その後の数十年で、奴隷の暮らしと病気によって人数はさらに減り、1862年には100人ほどしか残っていなかった。

19世紀にニュージーランドから持ち出されたマオリとモリオリの遺骨のテ・パパでの返還式典。(2018)
19世紀にニュージーランドから持ち出されたマオリとモリオリの遺骨のテ・パパでの返還式典。(2018)Wikimedia Commons US Embassy from New Zealand · CC BY 2.0

ジャレド・ダイアモンドは『銃・病原菌・鉄』の第2章を、この出来事から始めた(物語「『銃・病原菌・鉄』で読む歴史」)。マオリとモリオリは、わずか数百年前に分かれた同じ祖先の子孫で、言葉もほとんど同じだった。ところが、暖かく広い土地で農耕を続けたマオリは、人口が増え、首長と戦士を持つ戦いの社会になり、寒く狭い島で狩猟採集に戻ったモリオリは、小さく平和な社会になった。同じ人びとが、住んだ土地の違いによって、まったく違う社会を作った。ダイアモンドはこれを、太平洋の島々がくり広げた「歴史の自然実験」の一つと呼んだ。

征服した側のマオリも、5年後の1840年、イギリスとワイタンギ条約を結び、やがて土地を失っていく側に回る。モリオリはしばしば「滅んだ民族」と言われてきたが、それは誤りである。混血の子孫は今も数百人いて、自分たちの言葉と歴史を取り戻す運動を続けている。2021年には、ニュージーランド政府がモリオリの受けた不正を認めて謝罪し、補償の協定が法律として定められた。

出典(1)

ジャレド・ダイアモンド(倉骨彰 訳) 『銃・病原菌・鉄 一万三〇〇〇年にわたる人類史の謎』第2章 平和の民と戦う民との分かれ道

同じ時代のできごと

安全灯AD1815年ワーテルローの戦いAD1815年6月18日ワーテルローの歯AD1815年イギリスの金本位制AD1816年聴診器AD1816年ズールー王国の勃興1816年マカダム舗装AD1816年八時間労働AD1817年
この項目は誰でも直せます。編集する編集履歴
AD1835年の世界を地図で見る国境・できごと・生きている人が、その年のものに入れ替わります歴史データベースとは? →