ヴェルダン条約

概要
カール大帝の帝国が孫3人に分けられた。この線がフランス・ドイツ・イタリアの骨格になる。
場所
49.16°N 5.38°E · フランス
本文
843年8月、フランスの北東部の町ヴェルダンで、カール大帝の3人の孫が、祖父の築いた帝国を三つに分ける取り決めを結んだ。このとき引かれた線が、後のフランス、ドイツ、イタリアの骨組みになった。
カール大帝は、800年にローマで皇帝として戴冠し(カール大帝の戴冠)、いまのフランス、ドイツ、オランダ、ベルギー、スイス、オーストリア、北イタリアにまたがる帝国を治めた。814年に大帝が死ぬと、生き残っていた唯一の息子ルートヴィヒ(ルイ敬虔帝)が、帝国をまるごと継いだ。

フランク人には、王の財産である国を息子たちに分けて継がせる慣わしがあった。長男がすべてを継ぐという決まりはまだ無い。ルートヴィヒは、帝国を一つに保とうとして、長男のロタールを共同皇帝に立て、ほかの息子には一部の王国を与える定めを作った。ところが、二度目の妻との間に末の息子シャルルが生まれると、この子にも領土を与えようとして定めを書き換えた。不満を持った年上の息子たちは父に反乱を起こし、父を一時廃位までした。父と子、兄と弟の争いは、ルートヴィヒの治世の後半を通じて続いた。
840年にルートヴィヒが死ぬと、争いは兄弟の戦争になった。長男のロタールは皇帝の位を継ぎ、帝国全体の上に立とうとした。弟のルートヴィヒ(ドイツ人王)と、末のシャルル(禿頭王)は手を組んでこれに対抗した。841年6月、フランス中部のフォントノワで両軍がぶつかり、多くの死者を出してロタールが敗れた。同時代の人々は、その惨状を嘆く詩を残している。翌842年、二人の弟はストラスブールで、互いに助け合う誓いを立てた(ストラスブールの誓い)。その誓いの言葉は、西の兵にも東の兵にも分かるように、古いフランス語と古いドイツ語で記録されている。帝国の西と東で、人々の話す言葉が分かれはじめていた。

二人に押されたロタールは、交渉に応じた。兄弟はそれぞれ40人ずつ、あわせて120人の役人を出して帝国じゅうの領地と収入を調べさせ、それをもとに分け方を決めた。
ロタールは皇帝の称号を保ち、二つの都、アーヘンとローマを含む中央の部分を得た。北海の沿岸から、いまのオランダ、ベルギー、ライン川の西岸、アルザス、ブルグント、スイスを通って、北イタリアまで南北に細長く伸びる帯である。シャルルは西の部分を得た。だいたいいまのフランスにあたる。ルートヴィヒは、ライン川の東の部分を得た。だいたいいまのドイツにあたる。

分け方は、言葉や地形の区切りより、三人の取り分が釣り合うことを優先した。そのため、中央の部分は、まとまりの無い、細長い形になった。皇帝の称号も、二つの都も持っていたが、守りにくく、治めにくい土地だった。
その弱さは、すぐに表に出た。855年にロタールが死ぬと、中央の部分は3人の息子にさらに分けられた。北の部分を継いだロタール2世の名から、その土地はロタールの国、ロタリンギアと呼ばれた。いまのフランスのロレーヌ地方の名は、ここから来ている。ロタール2世が跡継ぎを残さずに死ぬと、870年、叔父である東西の王が、その土地を二つに分け合った。

西の王国からは、987年にユーグ・カペーの即位を経てカペー家の王が続き、フランス王国が育っていく。東の王国からは、オットー1世が962年に皇帝の冠を受け、神聖ローマ帝国が生まれる。言葉もまた、西ではフランス語、東ではドイツ語へと分かれていった。
そして、二つの国の間に残された細長い帯は、千年以上にわたって両者の争いの場になった。アルザスとロレーヌは、その代表である。1871年、普仏戦争に勝ったドイツがフランスから奪い、第一次世界大戦のあと、ヴェルサイユ条約でフランスに戻り、第二次世界大戦でまたドイツに占領され、戦後にフランスに戻った。

もちろん、843年の線が、そのまま後の国境になったわけではない。ヴェルダン条約は、王の家族の財産分けであって、国と国の境を引いたのではなかった。それでも、西と東の二つの大きなまとまりと、その間の不安定な帯という形は、ここで初めて地図に現れた。
第二次世界大戦のあと、フランス、西ドイツ、イタリア、ベネルクス三国の6か国が手を組んで、ヨーロッパの統合を始めた(ローマ条約)。その範囲が、カール大帝の帝国の範囲とよく重なることは、しばしば指摘される。843年に三つに分かれたものを、もう一度つなぎ合わせる試みだった、とも言われる。