できごと

ヴェルダン条約

Treaty of Verdun
AD843年
重要度 4
ヴェルダン条約に関わる図版:Louis the Pious blessing the division of the Carolingian Empire in 843 into West Francia, Lotharingia, and East Francia
Louis the Pious blessing the division of the Carolingian Empire in 843 into West Francia, Lotharingia, and East Francia Wikimedia Commons Anonymous Unknown author · Public domain

概要

カール大帝の帝国が孫3人に分けられた。この線がフランス・ドイツ・イタリアの骨格になる。

場所

ヴェルダン
49.16°N 5.38°E · フランス

本文

843年8月、フランスの北東部の町ヴェルダンで、カール大帝の3人の孫が、祖父の築いた帝国を三つに分ける取り決めを結んだ。このとき引かれた線が、後のフランス、ドイツ、イタリアの骨組みになった。

カール大帝は、800年にローマで皇帝として戴冠し(カール大帝の戴冠)、いまのフランス、ドイツ、オランダ、ベルギー、スイス、オーストリア、北イタリアにまたがる帝国を治めた。814年に大帝が死ぬと、生き残っていた唯一の息子ルートヴィヒ(ルイ敬虔帝)が、帝国をまるごと継いだ。

カール大帝の戴冠に関わる図版:Charlemagne denier Mayence 812 814
カール大帝の戴冠Wikimedia Commons Charlemagne. Autorité émettrice de monnaie indéterminé. Atelier monétaire. Émetteur · Public domain

フランク人には、王の財産である国を息子たちに分けて継がせる慣わしがあった。長男がすべてを継ぐという決まりはまだ無い。ルートヴィヒは、帝国を一つに保とうとして、長男のロタールを共同皇帝に立て、ほかの息子には一部の王国を与える定めを作った。ところが、二度目の妻との間に末の息子シャルルが生まれると、この子にも領土を与えようとして定めを書き換えた。不満を持った年上の息子たちは父に反乱を起こし、父を一時廃位までした。父と子、兄と弟の争いは、ルートヴィヒの治世の後半を通じて続いた。

840年にルートヴィヒが死ぬと、争いは兄弟の戦争になった。長男のロタールは皇帝の位を継ぎ、帝国全体の上に立とうとした。弟のルートヴィヒ(ドイツ人王)と、末のシャルル(禿頭王)は手を組んでこれに対抗した。841年6月、フランス中部のフォントノワで両軍がぶつかり、多くの死者を出してロタールが敗れた。同時代の人々は、その惨状を嘆く詩を残している。翌842年、二人の弟はストラスブールで、互いに助け合う誓いを立てた(ストラスブールの誓い)。その誓いの言葉は、西の兵にも東の兵にも分かるように、古いフランス語と古いドイツ語で記録されている。帝国の西と東で、人々の話す言葉が分かれはじめていた。

ストラスブールの誓いに関わる図版:Serments de Strasbourg
ストラスブールの誓いWikimedia Commons Renardeau.arctique · Public domain

二人に押されたロタールは、交渉に応じた。兄弟はそれぞれ40人ずつ、あわせて120人の役人を出して帝国じゅうの領地と収入を調べさせ、それをもとに分け方を決めた。

ロタールは皇帝の称号を保ち、二つの都、アーヘンとローマを含む中央の部分を得た。北海の沿岸から、いまのオランダ、ベルギー、ライン川の西岸、アルザス、ブルグント、スイスを通って、北イタリアまで南北に細長く伸びる帯である。シャルルは西の部分を得た。だいたいいまのフランスにあたる。ルートヴィヒは、ライン川の東の部分を得た。だいたいいまのドイツにあたる。

ヴェルダンの鳥瞰図(1638年)
ヴェルダンの鳥瞰図(1638年)Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

分け方は、言葉や地形の区切りより、三人の取り分が釣り合うことを優先した。そのため、中央の部分は、まとまりの無い、細長い形になった。皇帝の称号も、二つの都も持っていたが、守りにくく、治めにくい土地だった。

その弱さは、すぐに表に出た。855年にロタールが死ぬと、中央の部分は3人の息子にさらに分けられた。北の部分を継いだロタール2世の名から、その土地はロタールの国、ロタリンギアと呼ばれた。いまのフランスのロレーヌ地方の名は、ここから来ている。ロタール2世が跡継ぎを残さずに死ぬと、870年、叔父である東西の王が、その土地を二つに分け合った。

ドゥオーモン要塞の航空写真(1916年末)
ドゥオーモン要塞の航空写真(1916年末)Wikimedia Commons Photographer not identified. · Public domain

西の王国からは、987年にユーグ・カペーの即位を経てカペー家の王が続き、フランス王国が育っていく。東の王国からは、オットー1世が962年に皇帝の冠を受け、神聖ローマ帝国が生まれる。言葉もまた、西ではフランス語、東ではドイツ語へと分かれていった。

そして、二つの国の間に残された細長い帯は、千年以上にわたって両者の争いの場になった。アルザスとロレーヌは、その代表である。1871年、普仏戦争に勝ったドイツがフランスから奪い、第一次世界大戦のあと、ヴェルサイユ条約でフランスに戻り、第二次世界大戦でまたドイツに占領され、戦後にフランスに戻った。

ヴェルサイユ条約に関わる図版:Treaty of Versailles, English version
ヴェルサイユ条約Wikimedia Commons David Lloyd George, Woodrow Wilson and Georges Clemenceau · Public domain

もちろん、843年の線が、そのまま後の国境になったわけではない。ヴェルダン条約は、王の家族の財産分けであって、国と国の境を引いたのではなかった。それでも、西と東の二つの大きなまとまりと、その間の不安定な帯という形は、ここで初めて地図に現れた。

第二次世界大戦のあと、フランス、西ドイツ、イタリア、ベネルクス三国の6か国が手を組んで、ヨーロッパの統合を始めた(ローマ条約)。その範囲が、カール大帝の帝国の範囲とよく重なることは、しばしば指摘される。843年に三つに分かれたものを、もう一度つなぎ合わせる試みだった、とも言われる。

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