守護・地頭の設置
概要
義経を追うという名目で、頼朝が朝廷に国ごとの守護と荘園ごとの地頭を認めさせた。北条時政が兵を連れて京に来た。「文治の勅許」。武士が全国の土地に公の権限を持った。鎌倉幕府の始まりを1185年にするのは、この年から。
場所
35.03°N 135.76°E · 日本・京都府
関わった人(1)
源頼朝AD1147年–AD1199年 · 認めさせた本文
1185年(文治元年)11月、源頼朝の舅、北条時政が1000騎の兵を率いて京に入った。時政は後白河法皇に迫り、諸国に守護を、荘園と公領に地頭を置く権限を、頼朝に認めさせた。「文治の勅許」と呼ばれるこの出来事によって、鎌倉の武士の政権は、東国だけでなく全国の土地に公の権限を持つことになった。教科書が鎌倉幕府の成立を1185年とするのは、主にこの年を指している。
その年の3月24日、長門の壇ノ浦の戦いで平家は滅んだ。源平の争いに勝ったのは源頼朝だったが、戦場で勝ったのは弟の源義経だった。そして兄弟の間には、すでに亀裂が入っていた。義経は前年、頼朝の許しを得ないまま、後白河法皇から検非違使などの官職を受けていた。頼朝は、御家人が鎌倉を通さずに朝廷から官位をもらうことを固く禁じていた。それを許せば、朝廷が武士を一人ずつ引き抜いて、武家の結束を崩すことができるからである。

壇ノ浦のあと、義経は捕虜の平宗盛を連れて鎌倉へ向かったが、鎌倉に入ることを許されず、手前の腰越で足止めされた。義経が兄への弁明を書き連ねたという「腰越状」は『吾妻鏡』に載っているが、文面がそのまま本物かどうかには疑いもある。義経は失意のまま京へ戻った。
10月、頼朝は刺客として土佐坊昌俊を京に送った。義経はこれを返り討ちにし、後白河法皇に迫って、頼朝を追討せよという宣旨を出させた。しかし義経のもとに兵は集まらなかった。11月3日、義経は叔父の源行家とともに京を出て、西国へ逃れようとした。摂津の大物浦から船出したところで嵐に遭い、船団は散り散りになった。義経はわずかな供とともに姿をくらました。

頼朝は激しく怒った。法皇は義経が逃げると、今度は手のひらを返して、義経追討の院宣を出した。頼朝は、追討の宣旨を出した院の近臣たちの責任を問い、法皇を「日本国第一の大天狗」と呼んだと『吾妻鏡』は伝える。この怒りが、朝廷に要求を突きつける大きな梃子になった。
11月下旬、京に入った北条時政は、義経と行家を捕らえるためという名目で、諸国に守護と地頭を置くこと、そして田1段あたり5升の兵糧米を全国の荘園と公領から徴収することを求めた。『吾妻鏡』によれば、この策を頼朝に献じたのは、京から下った文官の大江広元だった。11月28日、法皇はこれを認めた。

守護は、国ごとに置かれ、その国の御家人を束ねて、治安を守る役である。のちに大犯三か条と呼ばれる、京都の警固(大番役)に御家人を送ること、謀反人を捕らえること、殺害人を捕らえることが主な役目になった。地頭は、荘園や公領ごとに置かれ、年貢の徴収と土地の管理、治安の維持にあたる役である。頼朝は御家人を地頭に任じることで、恩賞として土地の権利を与えることができた。
ただし、1185年に認められたのが、のちの守護と地頭そのものだったかどうかについては、研究者の間で長い議論がある。有力なのは、このとき置かれたのは一国ごとに強い権限を持つ「国地頭」で、兵糧米の徴収などの反発が大きかったため翌年には縮小され、のちに国ごとの守護と、荘園・公領ごとの地頭に整理されていった、という見方である。守護という名前も、初めは惣追捕使などと呼ばれていた。兵糧米の徴収は、荘園領主の公家や寺社の強い反発を受けて、翌1186年にはやめられた。
鎌倉幕府はいつ始まったのか。かつては、頼朝が征夷大将軍に任じられた1192年とされ、「いい国作ろう」の語呂合わせで覚えられた。いまの教科書の多くは1185年を重く見ている。しかしほかにも、頼朝が鎌倉に入って侍所を置いた1180年、朝廷が頼朝の東国支配を事実上認めた寿永二年十月宣旨の1183年、頼朝が右近衛大将に任じられた1190年などを挙げる説がある。幕府とは一つの法令や儀式で生まれたものではなく、段階を踏んで出来上がっていった、というのがいまの理解である(鎌倉幕府の成立)。
逃げ続けた義経は、やがて奥州平泉の藤原秀衡のもとに身を寄せた。秀衡が死ぬと、跡を継いだ泰衡は頼朝の圧力に屈し、1189年閏4月、衣川の館で義経を襲った。義経は自害した。頼朝は、義経をかくまった罪を問うとして、その年のうちに自ら大軍を率いて奥州を攻め、藤原氏を滅ぼした(奥州合戦)。義経を追うために認めさせた守護と地頭の仕組みは、義経の死のあとも残り、武士の支配の骨組みになった。

地頭は、その後の日本の土地のあり方を大きく変えた。地頭は年貢を荘園領主に納めず自分の手元にとどめたり、荘園の土地を自分のものにしたりして、領主の公家や寺社と争いを繰り返した。1221年の承久の乱で幕府が朝廷に勝つと、西国にも多くの地頭が置かれ、争いはさらに増えた。1232年の御成敗式目は、そうした争いを裁くための法でもあった。荘園領主は、地頭に年貢の納入を請け負わせたり、土地を地頭と半分ずつに分けたりして、少しずつ譲っていった。
守護もまた、時代とともに力を増した。室町時代には、守護が国内の武士を家臣にし、国そのものを支配する守護大名になった。その守護大名の多くが、やがて家臣に取って代わられ、戦国大名の時代が来る。1185年の冬、京で北条時政が求めた権限は、400年あまりにわたる武士の土地支配の始まりだった。その北条氏は、頼朝の死後、執権として幕府の実権を握ることになる。