マザラン
概要
イタリア人、ジュリオ・マッツァリーノ。教皇の外交官で、リシュリューが見込んで、フランスに。1642年、リシュリューが死んで、後継。司祭でないのに枢機卿。アンヌ・ドートリッシュとの関係(秘密結婚、と言う)。フロンド。2度追放されて、2度戻った。ウェストファリア、ピレネー条約(1659年)。ルイ14世を育てた。「陛下、自分で統治しなさい」。莫大な財産と本の蔵書(マザラン図書館)。
所属
フランス王国関わったできごと(2)
フロンドの乱AD1648年8月26日 · 摂政ウェストファリア条約AD1648年 · フランス本文
マザランは、フランスの宰相として名を残したが、生まれはイタリア人である。本名をジュリオ・マッツァリーノといい、1602年、イタリア中部のアブルッツォ地方に生まれ、ローマで育った。父はローマの名門貴族コロンナ家に仕える家臣だった。ジュリオはローマのイエズス会の学院で学び、コロンナ家の若君の供をしてスペインへ渡り、大学で法律を学んだ。陽気で人あたりがよく、賭け事に強く、人の心をつかむのがうまい若者だったと伝えられる。

ローマに戻ったマッツァリーノは、教皇の軍に入り、やがて教皇庁の外交の仕事に就いた。名を上げたのは、北イタリアのマントヴァ公国の跡継ぎをめぐって、フランスとスペインが争った戦争のときである。1630年、両軍がカザーレの城の前でまさにぶつかろうとしたとき、教皇の使者として和平の交渉にあたっていたマッツァリーノは、両軍の間に馬で駆け込み、和平が成ったと叫んで戦いを止めた、と伝えられる。この交渉の中で、彼はフランスの宰相リシュリューと出会い、その才能を深く見込まれた。
マッツァリーノは教皇の使節としてパリに滞在したのち、1639年にフランスに帰化し、リシュリューの下で働くようになった。名もフランス風にマザランと改めた。1641年には、リシュリューの推薦で枢機卿に任じられる。ただし、マザランは聖職者の最下級の位を受けていただけで、ミサを捧げる司祭にはついにならなかった。枢機卿の赤い衣は、信仰の位というより、外交と政治の地位のしるしだった。

1642年12月、リシュリューが亡くなると、国王ルイ13世はマザランを国の最高の会議に加えた。翌1643年5月、ルイ13世も亡くなり、わずか4歳のルイ14世が王位に就く。摂政となった母后アンヌ・ドートリッシュは、スペイン王家の出身で、かつてはリシュリューと対立した人だった。周囲の多くは、アンヌがリシュリューの後継者を遠ざけると予想した。ところがアンヌは、マザランを宰相に選び、最後まで彼を信頼し続けた。二人の関係はあまりに親密だったため、当時から恋仲だという噂が絶えず、ひそかに結婚していたという説まである。残された手紙は深い情愛を感じさせるが、結婚を確かめる証拠は見つかっていない。
マザランが引き継いだのは、リシュリューの始めた三十年戦争だった。ハプスブルク家のスペインと神聖ローマ帝国を相手に、フランスは長い戦争を続けていた。1648年、マザランの外交のもとでウェストファリア条約が結ばれ、フランスはアルザスの大部分などを手に入れて、ドイツの側の戦争を終わらせた。

しかし同じ1648年、国内で反乱が起きる。戦費をまかなうための重い税に、パリの高等法院が反発し、マザランが法院の指導者を逮捕すると、パリの民衆が通りにバリケードを築いた。これがフロンドの乱の始まりである。反乱はやがて、王族のコンデ公をはじめとする大貴族たちが加わった争いへと広がり、5年近く続いた。パリでは、マザランを罵る小冊子が数千種類も刷られ、「マザリナード」と呼ばれた。外国人で、成り上がりで、蓄財に熱心な宰相は、格好の憎まれ役だった。
マザランは二度にわたってフランスを追われ、ドイツの地に逃れた。幼い王と母后も、夜中にパリを抜け出さなければならなかった。それでもマザランは、亡命先からアンヌに手紙を送り続けて政治を動かし、反乱の側の仲間割れを待った。貴族たちは互いに争い、民衆も長い混乱に疲れていった。1653年、マザランは再びパリに戻り、権力を取り戻した。少年のルイ14世にとって、このフロンドの経験は、貴族と都への不信を生涯にわたって刻みつけたとされる。のちに王が宮廷をパリからヴェルサイユへ移すこと(ヴェルサイユ宮殿への移座)にも、その影が指摘されている。

戦争の残りの相手はスペインだった。マザランは、清教徒革命の後のイングランドを率いていたオリヴァー・クロムウェルと手を結び、1658年、フランスとイングランドの軍がフランドルでスペイン軍を破った。翌1659年、ピレネー山脈の国境の川の中の島で、フランスとスペインはピレネー条約を結ぶ。フランスは南のルシヨンと北のアルトワなどを得て、国境をほぼ今の形に近づけた。条約では、ルイ14世とスペイン王の娘マリー=テレーズとの結婚も取り決められた。このころ若い王は、マザランの姪のマリー・マンチーニに恋をし、彼女と結婚したいと願ったが、マザランは国の利益のために二人を引き離したと伝えられる。
マザランは、政治の才と同じくらい、蓄財の才でも知られた。宰相の地位を利用して築いた財産は莫大で、フランスで最も裕福な人物の一人になった。彼はまた熱心な収集家で、絵画や彫刻、宝石を集め、何万冊もの本を集めた。その蔵書は学者たちにも公開され、いまもパリに残るマザラン図書館は、フランスで最も古い公共の図書館とされる。

1661年3月、マザランはヴァンセンヌの城で亡くなった。58歳だった。死の床で、彼は自分の財産を王に差し出し、王はそれを返したという。遺言で、新しくフランスの領土になった地方の若者のための学院を作らせ、その建物は今、フランス学士院として使われている。マザランが死ぬと、22歳のルイ14世は大臣たちを集め、これからは宰相を置かず、自分で国を治めると告げた。マザランは死の前に、王に、自分で治めるように、と勧めていたとも伝えられる。マザランが自分の財産の管理を任せ、死の前に王に推したと伝えられるのが、のちに王のもとで財政を担うコルベールである。リシュリューが築き、マザランが守り抜いた王の権力は、こうしてルイ14世の親政へと引き継がれた。