概要
イタリア人、ジュリオ・マッツァリーノ。教皇の外交官で、リシュリューが見込んで、フランスに。1642年、リシュリューが死んで、後継。司祭でないのに枢機卿。アンヌ・ドートリッシュとの関係(秘密結婚、と言う)。フロンド。2度追放されて、2度戻った。ウェストファリア、ピレネー条約(1659年)。ルイ14世を育てた。「陛下、自分で統治しなさい」。莫大な財産と本の蔵書(マザラン図書館)。
所属
フランス王国関わったできごと(2)
フロンドの乱AD1648年8月26日 · 摂政ウェストファリア条約AD1648年 · フランス本文
1602年7月14日、ピシーナ(アブルッツォ)。ジュリオ・ライモンド・マッツァリーノ。父ピエトロはシチリア人で、ローマのコロンナ家の家令。母オルテンシア・ブッファリーニはコロンナ家の代母。ローマのイエズス会の学校。アルカラ・デ・エナーレス(スペイン、コロンナ家の息子と)。賭博と女。1628年、教皇軍の大尉。教皇の外交官(サッケッティ枢機卿の下)。1630年10月26日、カザーレ(マントヴァ継承戦争)。フランス軍とスペイン軍が突撃を始めた間に、馬で駆け込んで「和平!和平!」と叫んで、戦闘を止めた。名が知られた。リシュリューに会った(1630年1月)。「あの若者を見た。頭が切れる」。
1634〜36年、パリの教皇使節。リシュリューの側についた(教皇庁はフランスに近すぎると嫌った)。1639年、フランスに帰化。1641年12月、リシュリューの推薦で枢機卿(司祭ではなかった。生涯、叙階されなかった)。1642年12月、リシュリューが死んで、ルイ13世が国務会議に入れた。1643年5月14日、ルイ13世が死んだ。遺言でマザランは摂政会議の一人。5月18日、アンヌ・ドートリッシュが高等法院で遺言を破棄して、単独の摂政に。誰もが、アンヌはマザランを退けると思った(リシュリューの人だから)。アンヌは彼を首席大臣にした。
アンヌとマザラン。手紙(暗号)。秘密結婚した、と言う人がいる(司祭でないので、可能ではあった)。愛人だった、と言う人と、そうでなく、深い信頼だった、と言う人と。ルイ14世は「私の父」と呼んだことはないが、彼に育てられた。
フロンド。1651年2月、パリを出て、ブリュール(ケルン選帝侯の城)。追放の間、アンヌと手紙で政治を続けた。1652年1月、軍を連れて戻り、8月、また出て(コンデとの和解の条件)、1653年2月3日、パリに帰った。以後、死ぬまで首席大臣。
1648年、ウェストファリア(アルザス、メッス、トゥール、ヴェルダン)。1659年11月7日、ピレネー条約(スペインとの24年の戦争の終わり。ルシヨン、アルトワ。ルイ14世とマリー・テレーズの結婚。持参金50万エキュ——払われず、それがスペイン継承の口実に)。1658年、ライン同盟(ドイツの諸侯を皇帝から離した)。「ヨーロッパの調停者」。
財産。3500万リーヴル(フランスで最も富んだ人。リシュリューの2倍)。絵画(ラファエロ、ティツィアーノ、コレッジョ、カラッチ)、ダイヤモンド(「マザラン」の18個。王に遺贈)、本(4万冊。マザラン図書館。司書ノーデ。フロンドで散らばって、集め直した)、マザラン宮(いまフランス国立図書館リシュリュー館)。「マザリナード」(フロンドの間の彼への中傷文書、5000種。「イタリアの道化」「シチリアの泥棒」「アンヌの愛人」)。姪(マンチーニ姉妹、マルティノッツィ姉妹。7人)を、フランスとイタリアの大貴族に嫁がせた。マリー・マンチーニ(ルイ14世が愛して、結婚を望んで、マザランが引き離した)。
1661年3月9日、ヴァンセンヌ。58歳。死ぬ前に「陛下、私はあなたに全てを負っている。しかし、私は、あなたにコルベールを与えることで、あなたに返す」。「自分で統治しなさい。首席大臣を置いてはいけない」。翌日、ルイ14世(22歳)は大臣たちを集めて「これからは、私が自分で統治する。全ての報告を私に」。マザラン図書館の墓廟(コワズヴォの彫刻)は革命で壊され、1806年に復元された。