ガンディーの暗殺
概要
祈りの集会へ向かう途中、ヒンドゥー至上主義者に至近距離から撃たれた。独立から半年、分離の暴力のなかで断食を続けていた最中だった。
場所
28.61°N 77.21°E · インド
関わった人(1)
ガンディーAD1869年10月2日–AD1948年1月30日 · 殺された本文
1947年8月15日、インドはイギリスの支配から独立した(インドの独立)。しかしそれは、ガンディーが30年にわたって求めてきた形の独立ではなかった。英領インドは、ヒンドゥー教徒が多数を占めるインドと、イスラーム教徒の国パキスタンとに分けられたのである(インド・パキスタン分離)。新しい国境が引かれると、パンジャーブやベンガルでは、自分の宗教の側の国へ逃れようとする人びとの大移動が起き、各地で虐殺と略奪が繰り返された。死者は数十万から、多い推計では200万にのぼり、1000万人を超える人びとが故郷を追われた。
独立の日、ガンディーはデリーの祝典には出ず、宗教暴動の続くカルカッタ(いまのコルカタ)にいた。イスラーム教徒の多い地区に、ムスリムの政治家と一つ屋根の下で住み込み、独立の日の町は意外なほど静かだった。8月の末に暴動が再び燃え上がると、ガンディーは暴力が止まるまで食を断つと宣言し、数日で町を鎮めた。インド総督マウントバッテンは、パンジャーブに送った5万5000の兵ができなかったことを、一人の老人がベンガルで成し遂げた、と称えたという。

9月、ガンディーはデリーに移り、実業家ビルラの屋敷に滞在した。首都では、パキスタンから逃れてきたヒンドゥー教徒やシク教徒の難民が、イスラーム教徒を襲い、その家やモスクを奪っていた。1948年1月13日、78歳のガンディーは、デリーの宗教どうしの和解を求めて、生涯で最後となる断食に入った。同時にこの断食は、インド政府が分離の取り決めでパキスタンに支払うはずの資金を、カシミールをめぐる戦いを理由に止めていたことにも向けられていた。インド政府はやがて支払いに応じ、各宗教の指導者たちが平和を誓う文書に署名して、ガンディーは1月18日に断食を解いた。
ヒンドゥー至上主義の人びとの目には、こうした行動は、イスラーム教徒とパキスタンに譲りすぎる裏切りと映った。1月20日、ガンディーが毎夕開いていた祈りの集会で爆弾が投げ込まれる事件が起き、実行した若者が捕らえられた。だが、その背後にいた仲間たちは捕まらなかった。ガンディー自身は、警備を厳しくすることを望まなかった。

1948年1月30日の夕方5時過ぎ、ガンディーは、身の回りの世話をする二人の若い親族の女性の肩に手をかけて、ビルラ邸の庭の祈りの場へ向かっていた。集まった人びとの中から一人の男が進み出て、ガンディーの前で手を合わせて身をかがめた。ナートゥーラーム・ゴードセーである。次の瞬間、彼は拳銃を取り出し、至近距離から3発を撃ち込んだ。ガンディーはその場に崩れ落ち、まもなく息を引き取った。最期に神の名「ラーマよ」とつぶやいたと伝えられるが、そばにいた人びとの証言は分かれている。
ゴードセーは逃げようとせず、その場で取り押さえられた。彼はヒンドゥー至上主義の団体に関わり、その主張を広める新聞を出していた人物だった。裁判で彼は、ガンディーの非暴力とイスラーム教徒への歩み寄りがヒンドゥー教徒を弱め、国の分割を招いたと、長い陳述で動機を語った。1949年11月、ゴードセーと共犯の一人は絞首刑に処された。ガンディーの息子たちは、父の教えに従って減刑を求めていた。

暗殺の夜、首相のジャワハルラール・ネルーはラジオで国民に語りかけた。光が私たちの生活から消え、いたるところが闇になった、と。翌日の葬列には100万を超える人びとが沿道に集まり、遺体はヤムナー川のほとりで火葬された。遺灰はガンジス川とヤムナー川の合流点をはじめ、インドの各地の川や海に流された。政府はヒンドゥー至上主義の団体を一時禁止し、マハーラーシュトラでは、暗殺者と同じ共同体の人びとが襲われる暴動も起きた。
ガンディーの死は、分離の暴力に深い衝撃を与え、インドとパキスタンの国内の宗教暴動は、その後しばらく大きく鎮まったといわれる。インドは、特定の宗教に立たない国家として憲法を定める道を進んだ(インド憲法の施行)。命日の1月30日は、いまも「殉教者の日」として、全国で黙祷が捧げられている。
ただ、彼を殺した思想が消えたわけではない。ガンディーの非暴力の教えは、アメリカの公民権運動をはじめ世界中の抵抗運動に受け継がれた一方、インドの国内では、宗教による国の形をめぐる対立が、いまも続いている。1948年のノーベル平和賞は、ふさわしい存命の候補者がいないとして、受賞者なしとされた。何度も候補に挙がりながら受賞しなかったガンディーへの、無言の追悼だったと受け止められている。