クラレンドン巡回裁判令
概要
ヘンリー2世が、各地の12人の自由民に、地域で犯罪を犯した疑いのある者を国王の裁判官に申告させる仕組みを作った。告発する陪審である(裁く陪審になるのは後)。国王の巡回裁判官が全土を回り、同じ判断の基準を持ち帰る。地域ごとの慣習ではなく、王国に共通の法。「コモン・ロー」の語はここから来る。判例を積み上げて法とする体系が、この行政の都合から育った。
場所
51.06°N -1.74°E · イギリス・ウィルトシャー
関わった人(1)
ヘンリー2世AD1133年3月5日–AD1189年7月6日 · 命じた本文
1066年のヘイスティングズの戦いでノルマン人がイングランドを征服したあとも、この国の裁きは一つではなかった。領主が自分の荘園の農民を裁く荘園裁判所があり、州(シャイア)の裁判所と、その下の百戸邑(ハンドレッド)の裁判所があり、聖職者を裁く教会裁判所があり、都市には都市の裁判所があった。そのうえに国王の宮廷がある。それぞれが土地ごとの慣習に従って裁き、同じ罪でも場所によって扱いが違った。
1154年に王位についたヘンリー2世は、アンジュー伯の家に生まれ、イングランド王であると同時にノルマンディー公、アンジュー伯であり、妻アリエノールを通じてアキテーヌ公でもあった。スコットランドの境からピレネーまでを治める大きな領主である。彼の即位の前の19年間、イングランドはスティーヴン王と女帝マティルダが王位を争う内戦(無政府時代)にあり、諸侯は勝手に城を建て、私兵を抱え、自分の都合で人を裁いた。ヘンリーの課題は、国王の秩序を国の隅々まで行き渡らせることだった。正義のためだけではない。裁判は罰金と手数料を生み、国王の財布を満たす。

1166年、ヘンリーはウィルトシャーのクラレンドンにある狩猟用の館に有力な聖職者と諸侯を集めた。2年前の1164年、同じ館で彼は聖職者の裁判権を制限するクラレンドン法を出し、カンタベリー大司教トマス・ベケットと激しく対立していた。今回出されたのが、22か条からなるクラレンドン巡回裁判令である。
その第1条は、各州の百戸邑ごとに12人、村ごとに4人の、法にかなった自由民を選んで誓いを立てさせ、その土地に強盗・殺人・窃盗を犯した疑いのある者、あるいはそうした者をかくまった者がいるかどうかを、国王の裁判官に申し出させると定めた。地域の代表が「この者が怪しい」と名指しする仕組みで、のちの告発する陪審(大陪審)の源にあたる。この段階では、まだ有罪か無罪かを決める陪審ではない。
名指しされた者は、水に沈めて浮くか沈むかを見る神明裁判にかけられた。注目されるのは、神明裁判を切り抜けても、評判がきわめて悪い者は国外へ追放すると定めたことである。神の判定よりも、隣人たちの評判のほうが重く扱われていた。裁判令はほかに、各州の長官に容疑者を捕らえて拘置する牢屋を作らせ、領主の特権を理由に国王の役人を締め出すことを禁じた。
裁判令を実際に動かしたのは、国王の巡回裁判官である。彼らは決められた道筋で国じゅうの州を回り、それぞれの土地の慣習ではなく、国王の宮廷で共有された判断の基準を持ち込んだ。そして各地で見聞きした事件を宮廷へ持ち帰り、仲間の裁判官と話し合った。この往復の中で、国じゅうで同じように通用する法が少しずつ形になっていく。コモン・ローの「コモン」は庶民という意味ではなく、王国に共通という意味である。
同じころ、土地をめぐる争いにも新しい手続きが入った。最近不当に土地から追い出された者が国王の令状を買って訴える新侵奪回復訴訟は1166年ごろに始まり、親の死後に相続すべき土地を奪われた者のための訴訟が1176年に加わった。土地の権利そのものを争うときには、決闘で決める代わりに12人の騎士の評決に委ねる道(大アサイズ)も開かれた。いずれも、決闘や神明裁判ではなく、地元をよく知る者たちの宣誓した答えで決める手続きだった。
国王の裁判所は、領主の裁判所より速く公平だという評判を得た。人々が国王の令状を買い求めるようになると、領主の裁判所はしだいに衰えた。ただし副作用もあった。訴えの種類ごとに定型の令状が決まっていたため、合う令状が無ければ訴えることすらできない。この形式の硬さから逃れる道として、のちに大法官が個別の事情を汲んで救済する衡平法(エクイティ)が別に育っていく。
1215年、ローマで開かれた公会議が聖職者の神明裁判への関与を禁じた(神明裁判の終わり)。大陸の国々が新しい証拠の取り方を一から考えなければならなかったのに対し、イングランドにはすでに地域の人々が宣誓して答える仕組みがあった。人々を告発してきた陪審が、そのまま有罪か無罪かを答える役も負うようになる。告発した者が裁くのでは公平でないという声から、14世紀半ばには告発する大陪審と裁く小陪審を分ける考えが法律で裏づけられた。同じ1215年のマグナ・カルタは、自由人は同輩の合法的な裁判によらずに罰せられないと定めている。

陪審の独立が確かめられたのは、1670年のブッシェル事件である。クエーカー教徒ウィリアム・ペン(のちにペンシルベニアを開く人物)が違法な集会の罪に問われ、陪審は裁判官の求めに逆らって無罪とした。裁判官は陪審員に罰金を科して投獄したが、陪審長ブッシェルの訴えを受けた上級の裁判所は、陪審員を評決の内容によって罰することはできないと判断した。
陪審制はその後、英語圏に広がった。アメリカでは、アメリカ合衆国憲法の制定に1791年に加えられた修正条項が、大陪審による起訴と刑事・民事の陪審裁判を人々の権利として書き込んだ。ヨーロッパ大陸の多くの国は19世紀に陪審を取り入れたが、のちに職業裁判官と市民が一緒に判断する参審制へ移った。日本も1928年から1943年まで陪審制を持ち、2009年からは裁判員制度(裁判員制度の始まり)で市民が刑事裁判に加わっている。イングランドでも、いま陪審が判断するのは刑事事件のごく一部にとどまる。それでも、国家が人を裁く場には地域の市民がいるべきだという考えは、850年以上前、狩猟の館で出された一枚の命令にさかのぼる。