ニュージーランド戦争

概要
ワイタンギ条約の解釈と土地の売買をめぐって、27年断続的に戦われた。マオリは要塞(パー)を工夫して大砲に耐えたが、最後は土地の没収で押し切られる。
場所
-41.29°N 174.78°E · ニュージーランド
本文
ニュージーランド(アオテアロア)には、13世紀ごろからポリネシアの人びとが住んでいた(アオテアロアへの到達)。18世紀の後半、ジェームズ・クックの航海で島の姿がヨーロッパに知られると(クックの太平洋航海)、捕鯨船や商人、宣教師が訪れ、やがて入植者がやってきた。マオリの人びとは、銃や鉄の道具、ジャガイモを取り入れ、部族どうしの戦いが銃で激しくなった時期もあった。
1840年、イギリスの代理の総督ホブソンと、北島の多くの首長とのあいだでワイタンギ条約が結ばれた。各地で写しが回され、500人を超える首長が署名した。だが、条約は英語版とマオリ語版で意味が違っていた。英語版では、首長たちはイギリス女王に主権を譲り渡すと読める。マオリ語版では、譲るのは「統治」を表す言葉で、首長たちが自分の土地と村と大切なものに対して持つ完全な首長の権限は保障される、と読める。土地はイギリスの政府にだけ売る、という決まりもあった。マオリの側が土地を「売った」と考えていない取引も多く、使うことを許しただけだと理解していた例も多い。

入植者が増えると、土地をめぐる食い違いは争いになった。1844年から翌年にかけて、北部の首長ホネ・ヘケは、イギリスの支配の印としてコロラレカの丘に立つ旗竿を、4度にわたって切り倒した。1845年、ヘケと首長カウィティの軍がコロラレカの町を攻め、北部での戦いが始まった。これがニュージーランド戦争の最初の戦いとされる。以後27年、戦いは各地で断続的に続いた。
マオリは、伝統の砦パーを作り替えて対抗した。大砲の弾を吸い込む厚い土塁、砲撃をやり過ごす塹壕と地下の壕、銃を撃つための狭い穴。イギリス軍が何日も砲撃して攻め込むと、守り手はすでに抜け出していた、ということが繰り返された。1864年のゲート・パーの戦いでは、攻めたイギリス軍が大きな損害を出して退いた。こうした塹壕の戦い方は、のちの時代の戦争を先取りしていたとも言われる。

1850年代、土地を売るのを止め、部族を超えてまとまろうとするマオリの人びとは、自分たちの王を立てた。王の運動と呼ばれる。植民地政府はこれを女王への反逆と見た。1860年にタラナキで土地の売買をめぐる戦いが起き、1863年には総督グレイが大軍で北島中部のワイカトに攻め込んだ。イギリスとオーストラリアから集められた兵は1万を超え、マオリの戦士の数をはるかに上回った。ランギリリやオラカウで激しい戦いがあり、ワイカトの肥えた土地は奪われた。
決着をつけたのは、戦闘より法だった。1863年に作られた法律で、政府は「反乱」を起こしたとみなした部族の土地を没収した。没収された土地は100万ヘクタールを超える。戦いに加わらなかった人びとの土地まで取られた例も多く、戦いに勝った場所でも土地は失われた。

1860年代の後半には、聖書の教えを独自に読み直したパイ・マリレの運動や、預言者テ・クーティの率いる戦いが起きた。テ・クーティは捕らえられて流された島から脱出し、数年にわたって政府軍と戦った後、王の運動の人びとが守る北島中部の山地に逃れた。1872年ごろ、大きな戦いは終わった。
その後も抵抗は続いた。タラナキのパリハカの村では、預言者テ・フィティとトフが、武器を取らずに抵抗することを説いた。没収された土地に測量の杭が打たれると、人びとはその土地を耕し、柵を建てて、測量を静かに妨げた。1881年11月、1600人ほどの兵がパリハカに入った。子どもたちが歌いながら兵を出迎え、村人たちは座ったまま抵抗しなかった。指導者は捕らえられ、村は壊された。

20世紀の後半、マオリの人びとは、条約が守られなかったことを訴え続けた。1975年、条約の違反を審査するワイタンギ審判所が置かれ、10年後には1840年までさかのぼって訴えを審査できるようになった。1995年、ワイカトの人びととの和解では、政府が補償を払い、エリザベス女王が謝罪を盛り込んだ法律に裁可を与えた。19世紀の没収をめぐる和解は、いまも各地の部族とのあいだで進められている。