セレツェ・カーマ
概要
王家の跡継ぎが白人女性と結婚し、イギリスと南アフリカの圧力で追放された。帰国して初代大統領になり、ダイヤモンドの収入を国のものにした。
関わったできごと(1)
ボツワナの独立AD1966年9月30日 · 初代大統領本文
セレツェ・カーマは1921年7月1日、南部アフリカのイギリス保護領ベチュアナランド(いまのボツワナ)のセロウェに生まれた。ベチュアナランド最大の部族ンワトの王家の生まれで、祖父カーマ3世は、19世紀の末にロンドンへ赴いて、南アフリカの植民地会社に土地を奪われないよう保護を求めた有名な首長だった。

1925年、父が亡くなり、4歳のセレツェが首長の位を継いだ。実際の統治は叔父のツェケディ・カーマが摂政として担った。セレツェは南アフリカの学校と大学で学び、1945年にイギリスへ渡ってオックスフォード大学で学んだのち、ロンドンで法律の勉強を続けた。
ロンドンで、セレツェは保険会社の事務員だった白人女性ルース・ウィリアムズと出会った。宣教団体の集まりのダンスの場だったと伝えられる。二人は1948年9月に結婚した。

その年の5月、隣の南アフリカでは国民党が政権を取り、人種を分けて隔離するアパルトヘイトを法律にしはじめていた。隣国の黒人の首長が白人の妻を迎えることを、南アフリカ政府は激しく非難した。南ローデシアの白人政府も同じだった。保護領の側でも、叔父のツェケディは、部族の慣わしに反するとして結婚に強く反対した。
セレツェは帰国して、部族の集会で人びとに直接訴えた。何度かの集会のすえ、1949年、ンワトの人びとはセレツェとルースを首長とその妻として受け入れた。叔父は地位を退いた。

問題を大きくしたのは、イギリス政府だった。イギリスは戦後の経済の立て直しに、南アフリカの金とウランを必要としていた。南アフリカを怒らせれば、保護領そのものを南アフリカに併合されるおそれもあった。イギリス政府は調査団を送り、調査団はセレツェが首長にふさわしいと報告したが、政府はその報告を伏せた。1950年、セレツェをロンドンに呼び出し、そのまま5年間の国外追放を言い渡した。1952年には、追放を無期限に延ばした。
この措置はイギリス国内でも批判を浴びた。人種の偏見に屈したのではないか、と議会でも追及された。セレツェとルースはロンドンで暮らしながら、帰国を求め続けた。ンワトの人びとも、首長の不在に抗議した。
1956年、セレツェは首長の位を放棄することを条件に、ようやく帰国を許された。首長としてではなく、一人の市民として帰ったのである。だが彼はそこから、新しい道を歩みはじめた。1962年に政党を作り、独立に向けて各地を回って支持を集めた。1965年の選挙で圧勝して首相になり、1966年9月30日、ベチュアナランドはボツワナとして独立した(ボツワナの独立)。セレツェは初代大統領に就いた。
独立したときのボツワナは、世界で最も貧しい国の一つだった。舗装された道路はわずかで、国の予算の多くをイギリスの援助に頼っていた。その翌年、ンワトの土地のオラパでダイヤモンドの大きな鉱床が見つかった。セレツェは独立の前後に、部族の土地の鉱物の権利を国のものにする道筋をつけていた。ダイヤモンドは自分の部族の土地から出たが、その富は部族ではなく、国全体のものになった。国際的なダイヤモンド企業とは合弁の会社を作り、のちに国がその半分を持つようにして、その収入を道路、学校、病院に回した。
セレツェは、周りの国々とは違う道を選んだ。周辺では、白人の少数支配と、それに対する解放闘争、独立後の一党支配や軍事政権が続いていた。ボツワナは複数の政党による選挙を定期的に行い、言論の自由を保ち、汚職を厳しく取り締まった。白人支配の南アフリカやローデシアに囲まれ、経済を頼りながらも、アパルトヘイトには反対の立場をとり続けた。
1980年7月13日、セレツェは膵臓がんのため在任中に死んだ。59歳だった。ボツワナはその後も選挙を一度も欠かさず、ダイヤモンドの富を背景に、アフリカで最も豊かで安定した国の一つになった。息子のイアン・カーマも、のちに大統領を務めている。独立以来続いた与党は、2024年の選挙で初めて敗れ、政権は平和のうちに交代した。
経済学者アセモグルとロビンソンは『国家はなぜ衰退するのか』で、ボツワナを、植民地支配のあとに、権力を一部の者が独占しない仕組みを作り上げた例外の国として取り上げている(物語「『国家はなぜ衰退するのか』で読む歴史」)。その仕組みの土台を作った人物として名が挙がるのがセレツェである。セレツェの死から14年後、隣の南アフリカでもアパルトヘイトが終わった(アパルトヘイトの終結)。二人の結婚は、のちに映画にもなった。人種の壁を越えた結婚が一国の行方を変えた話として、いまも語られている。