ウェブスターのアメリカ英語辞典
概要
独立した国には独立した言語が要る、とノア・ウェブスターは考えた。26年かけて7万語を集め、うち1万2000語はそれまでどの辞書にもなかった。スカンク、ヒッコリー、大統領選挙人。そして綴りを変えた。colour を color に、centre を center に、defence を defense に。理屈は「発音どおりに、簡潔に」だが、動機の半分は独立宣言である。学校用の綴字教科書は1億部売れ、彼の綴りがアメリカの標準になった。
場所
41.31°N -72.93°E · アメリカ・コネチカット州
関わった人(1)
ノア・ウェブスターAD1758年10月16日–AD1843年5月28日 · 編んだ本文
ノア・ウェブスターは1758年、コネチカットのウェスト・ハートフォードの農家に生まれた。イェール大学に在学中に独立戦争が始まり、民兵として短い期間従軍したが、戦場で戦うことはなかった。卒業後は法律を学んだものの職にありつけず、学校の教師になった。
教室で彼が憤ったのは、教科書がどれもイギリスで作られたものだったことである。綴りも発音も例文もイギリスのもので、中には国王への忠誠を説く文章まであった。独立したばかりの国の子どもたちが、それを読んで言葉を学んでいる。国の名誉のためには、政治と同じく言葉においても自分たちの仕組みを持たなければならない、とウェブスターは書いた。言葉が一つにまとまることは、国民が一つにまとまることだ、と彼は考えていた。

1783年、彼は子ども向けの綴りの教科書を出した。のちに『アメリカ綴字教本』と呼ばれ、青い表紙だったことから「青い背の綴り本」の愛称で親しまれた。アルファベットに始まり、音節の区切り方、綴りの練習、短い読み物、道徳の教えへと進む。これが爆発的に売れた。19世紀を通じてアメリカのほとんどの学校で使われ、百年あまりのあいだに売れた数は、推計で七千万から一億部にのぼる。聖書に次いで売れたアメリカの本と言われる。
本は売れたが、当時のアメリカには、書いた者の権利を守る法がほとんどなかった。海賊版が出回る。ウェブスターは各州を回って議会に著作権の法を作るよう訴え、州ごとに法を成立させていった。その動きは、1790年の連邦の著作権法へとつながった。このため彼は、アメリカの著作権の父とも呼ばれる。

1806年、彼は小さな辞書を出し、続いて本格的な辞典に取りかかった。完成までに二十年あまりを費やすことになる。語の起源を調べるために、ギリシア語、ラテン語、ヘブライ語、アラビア語、古い英語など、二十を超える言語を独学した。ただ、彼の語源の説明の多くは、いまから見れば誤りである。彼は、すべての言語がバベルの塔より前の一つの言葉にさかのぼるという聖書の話を前提にしていた。同じころヨーロッパでは、グリム兄弟らの手で、言葉の比較が法則を探る学問になりつつあった(グリム兄弟のドイツ語辞典)。1824年、ウェブスターはフランスとイギリスに渡り、イギリスのケンブリッジ大学の図書館で、最後の項目を書き上げた。
1828年、七十歳のウェブスターは『アメリカ英語辞典』全二巻を世に出した。収めた語はおよそ七万で、そのうち一万二千語は、それまでのどの英語の辞書にも載っていなかった、と彼は述べている。そこには、アメリカの土地で生まれた言葉が並んでいた。スカンクやヒッコリーのように先住民の言葉から入った動植物の名、党員集会を意味する語や、大統領の、議会の、といった新しい政治の仕組みを表す語である。イギリスのジョンソンの英語辞典が載せなかった、新しい国の言葉だった。

ウェブスターはまた、綴りを変えた。「色」や「名誉」の語から u を落とし(colour を color に)、語尾の順を入れ替え(centre を center に)、c を s にし(defence を defense に)、子音を重ねない形(travelled を traveled に)を採った。理屈は、発音に忠実に、簡潔に、というものである。もっと思い切った案も持っていて、舌や女性を表す語を発音どおりに書き換えることも提案したが、これらは定着しなかった。彼の改め方の多くは、イギリスでもすでに揺れていた綴りのうち、一方を選んで固めたものでもあった。それでも、綴りの違いがアメリカの独立の意思表示だったことは確かである。綴字教本が全国の教室に行き渡っていたので、彼の綴りは子どもたちを通じてアメリカの標準になった。
辞典そのものは、すぐには売れなかった。値段は二十ドルと高く、初版二千五百部が売り切れるまでに十年以上かかった。ウェブスターはこの事業で暮らしに苦しんだ。

辞典のほかにも、ウェブスターの仕事は幅広かった。1793年にはニューヨークで新聞を創刊し、連邦派の論陣を張った。各地の疫病の記録を集めて流行の原因を論じた本も書き、晩年の1833年には、古くなった言い回しや品のない表現を改めた英語の聖書まで出している。綴字教本は、綴りの正しさを競う「綴り競べ」を学校や村の集まりの楽しみとして広めたとされ、正しく綴れることが教養のしるしだという感覚を、アメリカの人々に植えつけた。
彼は好かれる人ではなかったと言われる。自信が強く、論争を好み、言葉は辛辣だった。政治では強い中央政府を支持する連邦派に属し、トマス・ジェファソンの一派とは激しく対立した。一方で、綴りの改革ではベンジャミン・フランクリンと意気投合した。フランクリンは、もっと徹底した、発音どおりの新しい文字を考えていた。

1843年、ウェブスターは84歳で死んだ。その年、印刷業を営むジョージとチャールズのメリアム兄弟が、遺族から辞典の権利を買い取った。兄弟は改訂を重ね、値段を六ドルに下げて、学校や家庭に売り込んだ。こうして生まれたメリアム=ウェブスターの辞典は、いまもアメリカで最も標準的な辞書の一つである。「ウェブスター」の名はやがて辞書の代名詞になり、関わりのない出版社も次々にこの名を冠した辞書を出した。
言葉は国民を作る、とウェブスターは生涯言い続けた。同じ考えは、19世紀のヨーロッパの各地で、それぞれの言葉と国の形で繰り返されることになる。