できごと

ヘイマーケット事件

Haymarket affair
AD1886年5月4日
重要度 5
ヘイマーケット事件に関わる図版:HaymarketRiot-Harpers
HaymarketRiot-Harpers Wikimedia Commons Thure de Thulstrup · Public domain

概要

5月1日、8時間労働を求めて全米で35万人がストライキに入った。5月3日、シカゴのマコーミック工場前で警官が発砲して死者が出た。翌4日の抗議集会が終わりかけたとき、爆弾が投げられ、警官7人と市民4人が死んだ。投げた者は分からないまま、無政府主義者8人が裁かれ、4人が絞首刑になった。1889年、第二インターナショナルが5月1日をメーデーに定めた。

場所

ヘイマーケット(シカゴ)
41.88°N -87.64°E · アメリカ・イリノイ州

本文

南北戦争のあと、アメリカは世界でもっとも急速に工業化する国になった。シカゴはその象徴で、鉄道が集まり、食肉加工、製材、農業機械の工場が立ち並び、ドイツやボヘミア、アイルランド、スカンディナヴィアから移民が押し寄せた。人口は1880年代に倍近くに増えたが、工場で働く人々の一日は10時間から14時間、週6日が当たり前だった。景気の波が来るたびに賃金は削られ、解雇された。

1884年、全国の労働組合の連合体(のちのアメリカ労働総同盟の前身)は大会で決議した。1886年5月1日以降、法定の労働日は8時間とする。法律で決まるのを待たず、その日から労働者が自分たちで8時間しか働かないことにして、雇い主に認めさせようという呼びかけだった。「8時間の労働、8時間の休息、8時間を自分の好きなことに」という歌が広まった。8時間労働を求める声そのものは、半世紀以上前からあった(八時間労働)。

絞首刑に処された被告人7人。
絞首刑に処された被告人7人。Wikimedia Commons Frank Leslie's Illustrated Newspaper · Public domain

1886年5月1日は土曜日だった。全米で30万から50万人がストライキや示威行進に加わったとされ、その中心がシカゴだった。数万人が仕事を止め、街を練り歩いた。行進は平穏に終わった。シカゴの運動の先頭には、ドイツ語の労働者新聞『アルバイター・ツァイトゥング』の編集者アウグスト・シュピースや、アラバマ出身の元南軍兵士で印刷工のアルバート・パーソンズら、無政府主義者たちがいた。彼らは国家も資本家も不要だと説き、演説や新聞で、ときに武装やダイナマイトを礼賛する過激な言葉も使っていた。

5月3日、市の南西にあるマコーミック農業機械の工場の前で衝突が起きた。この工場では2月から労働者が締め出され、代わりにスト破りが雇われていた。近くで開かれていた集会が終わるころ、終業のベルが鳴り、工場から出てきたスト破りに群衆が詰め寄った。駆けつけた警官隊が発砲し、労働者のうち少なくとも2人が死んだ(もっと多かったとする報告もある)。その場にいたシュピースは憤り、その夜、英語とドイツ語で「復讐を」と呼びかけるビラを刷った。翌日の夜、ヘイマーケット広場で抗議の集会を開くという告知も配られた。

ヘイマーケット事件を報じる新聞
ヘイマーケット事件を報じる新聞Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

5月4日の夜、ランドルフ通りとデスプレインズ通りの角に集まったのは、2000人から3000人ほどだったとされる。予想より少なく、天気も崩れかけていた。荷馬車を演壇にして、シュピース、パーソンズ、イギリス生まれの運送業者サミュエル・フィールデンが順に話した。演説は激しい言葉を含みながらも、群衆は落ち着いていた。市長カーター・ハリソンは自ら集会を見に来て、何も起きそうにないと判断し、近くの警察署にその旨を伝えて帰宅した。雨が降り出し、人々は帰り始め、残ったのは数百人だった。

10時半ごろ、最後のフィールデンが話を締めくくろうとしていたとき、ジョン・ボンフィールド警部の指揮する警官176人が隊列を組んで進んできて、解散を命じた。フィールデンは、我々は平穏に集まっているのだと答えて、荷馬車を降りかけた。そのとき、どこからか導火線の火花を散らす物が警官の列に投げ込まれ、爆発した。巡査マティアス・デーガンがほぼ即死し、多くが倒れた。警官たちはすぐに撃ち始め、暗闇の中で群衆に向けて、そして仲間どうしでも撃ち合った。銃撃は数分続いた。警官は最終的に7人が死に、60人ほどが負傷したが、爆弾で死んだのはデーガン一人で、ほかは銃弾によるもの、それも多くは味方の弾だった可能性が高いと、のちに指摘されている。市民の死者は少なくとも4人、負傷者の数は分からない。撃たれた人々の多くは逮捕を恐れて病院に行かなかったからである。

ヘイマーケット事件の集会を呼びかけるビラ
ヘイマーケット事件の集会を呼びかけるビラWikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

爆弾を投げたのが誰だったのかは、いまも分かっていない。

新聞は「無政府主義者の暴動」を書き立て、シカゴは恐慌状態になった。警察は令状もなく労働運動の事務所や印刷所、活動家の自宅を捜索し、数百人を拘束した。最終的に8人が起訴された。シュピース、フィールデン、パーソンズ、ミハエル・シュワブ、ジョージ・エンゲル、アドルフ・フィッシャー、ルイス・リング、オスカー・ニーベ。うち5人はドイツ生まれの移民だった。爆発の瞬間に広場にいたのはシュピースとフィールデンの2人だけで、エンゲルは自宅にいた。爆弾を投げたことを示す証拠は、誰についても出されなかった。検察は、彼らが演説や新聞で暴力をあおり、その結果、正体の分からない誰かが爆弾を投げたのだから、殺人の共犯だと主張した。パーソンズは事件のあと町を離れて身を隠していたが、裁判の初日、自ら法廷に現れて、仲間とともに被告席に着いた。

The Bosses of the Senate by Joseph Keppler (cropped)
Wikimedia Commons Joseph Keppler · Public domain

陪審員の選定は、労働運動に敵意を隠さない人々を残す形で進められ、裁判長ジョゼフ・ゲーリーも明らかに検察寄りだった。1886年8月20日、7人に死刑、ニーベに懲役15年の評決が下った。上訴はすべて退けられた。処刑の前日、リングは独房で口にくわえた雷管を爆発させて自殺した。州知事はフィールデンとシュワブを終身刑に減刑した。1887年11月11日、シュピース、パーソンズ、エンゲル、フィッシャーの4人が絞首刑に処された。頭巾をかぶせられたシュピースは、いつか、我々の沈黙が、今日あなたがたが絞め殺そうとしている声よりも力強くなる日が来るだろう、と叫んだと伝えられる。シカゴでの葬列には、沿道に数十万の人が集まったという。

6年後の1893年、イリノイ州知事ジョン・ピーター・アルトゲルドは、生き残っていたフィールデン、シュワブ、ニーベの3人を恩赦にした。彼は長い文書で理由を公表し、陪審の選び方は不公正で、裁判長は偏見を持ち、被告と爆弾とを結ぶ証拠はなかったと断じた。新聞は彼を無政府主義者の味方と激しく攻撃し、彼は次の選挙で敗れて政治生命を失った。

事件は、遠く海を越えて記憶された。1889年、フランス革命100周年のパリに各国の社会主義者が集まって結成された第二インターナショナル(その源流は第一インターナショナル)は、翌1890年の5月1日に、8時間労働を求める国際的な示威行動を行うと決めた。シカゴの5月1日を受け継いだこの日が、メーデーになった。やがて世界の多くの国で労働者の日として祝日になり、日本でも1920年に最初のメーデーが開かれた(戦後の食糧メーデーもその流れにある)。

第一インターナショナルに関わる図版:Geneva Congress of the First International, 1866
第一インターナショナルWikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

ところが、事件の起きた当のアメリカでは、5月1日は労働者の祝日にならなかった。1894年、プルマン・ストライキを軍隊で鎮圧した直後のクリーヴランド政権は、9月の第1月曜日を「レイバー・デー」として連邦の祝日に定めた。過激な運動と結びついた5月1日から、労働者の祭日を引き離す意図があったとされる。冷戦期には、5月1日は「忠誠の日」と「法の日」とされた。シカゴの墓地に眠る処刑された男たちの記念碑は、いまも世界の労働運動の巡礼の地になっている。

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