概要
5月1日、8時間労働を求めて全米で35万人がストライキに入った。5月3日、シカゴのマコーミック工場前で警官が発砲して死者が出た。翌4日の抗議集会が終わりかけたとき、爆弾が投げられ、警官7人と市民4人が死んだ。投げた者は分からないまま、無政府主義者8人が裁かれ、4人が絞首刑になった。1889年、第二インターナショナルが5月1日をメーデーに定めた。
場所
41.88°N -87.64°E · アメリカ・イリノイ州
本文
1884年、シカゴの労働団体連合が決めた。「1886年5月1日以降、法定労働日は8時間とする」。それまでは、10時間から14時間が普通だった。
1886年5月1日、土曜日。全米で30万〜50万人がストライキに入った。シカゴだけで4万〜8万人。行進は平穏だった。
5月3日、マコーミック農機工場。ストライキ破りが働いていた。集会が終わりかけたとき、交代の時間になり、群衆がストライキ破りに向かった。警官が発砲した。労働者2人(4人とも)が死んだ。
無政府主義者のアウグスト・シュピースが、その夜、ドイツ語のビラを刷った。「復讐だ! 労働者諸君、武器を取れ!」。翌日の抗議集会が呼びかけられた。
5月4日、火曜、夜。ヘイマーケット広場(デスプレインズ通り)。雨模様で、集まったのは2500人ほど、やがて数百人に減った。演説は穏やかだった。市長カーター・ハリソンが自分で確かめに来て、「何も起きない」と判断して、警察署長に「解散させる必要はない」と伝えて帰った。
10時半、最後の演説者サミュエル・フィールデンが話しているとき、警官176人が隊列を組んで進んできて、解散を命じた。フィールデンが「我々は平穏です」と答えた。
そのとき、警官の隊列に、何かが投げられた。爆発。警官マティアス・デーガンが即死。警官が撃ち始めた。暗闇で、互いを撃った。警官7人が死に(そのほとんどが警官自身の弾で、と後に指摘された)、60人が負傷。市民は少なくとも4人が死に、多数が負傷した。
誰が投げたのかは、いまも分かっていない。
戒厳令のような取り締まり。労働運動の事務所と印刷所と自宅が捜索された。8人が起訴された。シュピース、フィールデン、アルバート・パーソンズ、ミハエル・シュワブ、ジョージ・エンゲル、アドルフ・フィッシャー、ルイス・リング、オスカー・ニーベ。爆弾を投げた証拠は、誰についても示されなかった。起訴は「爆弾を投げた未知の者を、言論によって教唆した」というものだった。パーソンズは事件の夜に演説して、その場を去っていた(妻子と)。彼は逃げず、裁判の初日に自分から法廷に現れて、被告席に座った。
陪審は、労働運動に敵意を持つ者で固められた。1886年8月20日、7人に死刑、ニーベに懲役15年。
1887年11月11日、4人が絞首刑(シュピース、パーソンズ、エンゲル、フィッシャー)。リングは前日、独房でダイナマイトの雷管を口にくわえて自殺した。フィールデンとシュワブは終身刑に減刑された。
シュピースの最後の言葉。「いつか、我々の沈黙が、あなた方が今日絞め殺そうとしている声よりも、強くなる日が来るだろう」。
1893年、イリノイ州知事ジョン・ピーター・アルトゲルドが、生き残った3人に恩赦を与え、その理由を長い文書で公にした。裁判は不当で、陪審は偏り、判事は先入観を持ち、証拠はなかった。彼の政治生命は終わった。
1889年、パリで第二インターナショナルが、シカゴの事件を記念して、5月1日を国際的な労働者の日と定めた。メーデーは、世界の多くの国で祝日になった。アメリカでは、9月の第1月曜が「レイバー・デー」で、5月1日は「法の日」と「忠誠の日」に定められている。