人権宣言

概要
人は生まれながらに自由で権利において平等である。国民議会が17条で書いた。女性は含まれておらず、2年後にグージュが「女性の権利宣言」で問い直す。
場所
48.86°N 2.35°E · フランス
本文
1789年8月26日、パリの民衆がバスティーユ牢獄を襲ってから6週間あまりのち、ヴェルサイユに置かれていた国民議会は、17の条文からなる一つの宣言を採択した。正式な名は「人間と市民の権利の宣言」。その第1条は、人は自由で、権利において平等なものとして生まれ、生き続ける、と始まる。王の権威と身分の上下で組み立てられていた国で、権利の出どころを、神や王ではなく、生まれながらの人間そのものに置いた文章だった。
その年の春まで、フランスは絶対王政の国だった。社会は、聖職者の第一身分、貴族の第二身分、残りすべての人々の第三身分に分けられ、税を負うのは主に第三身分だった。度重なる戦争、とりわけアメリカ独立戦争への援助で、国の財政は破綻に瀕していた。国王ルイ16世は、新しい税を認めさせるため、170年以上開かれていなかった全国三部会を1789年5月に召集した。
だが三部会は、第三身分の代表が自ら「国民議会」を名乗り、憲法ができるまで解散しないと誓う場になった。王が軍を集めると、パリの民衆は7月14日にバスティーユを攻め落とした。地方では農民が領主の館を襲い、議会は8月4日の夜、封建的な特権の廃止を次々に決めた(フランス革命)。古い秩序が崩れたあとに、どのような原則で新しい国を建てるのか。その答えを、憲法の本文に先立つ前文として掲げようとしたのが、人権宣言だった。

手本は大西洋の向こうにあった。1776年のアメリカ独立宣言は、すべての人は平等に造られ、生命と自由と幸福の追求という奪いえない権利を与えられている、とうたっていた。アメリカの各州も、権利の章典を持つ憲法を作っていた。アメリカ独立戦争に義勇兵として加わった貴族ラファイエットは、7月に宣言の草案を議会に出した。その草案作りには、当時パリに駐在していたアメリカの外交官トマス・ジェファソンが助言している。思想の面では、ジャン=ジャック・ルソーの一般意思の考えや、モンテスキューの権力の分立の考えが、条文のあちこちに響いている。
議会では、さまざまな草案が出され、8月の後半に一条ずつ議論されて、最後に17条にまとまった。第2条は、すべての政治的な結びつきの目的は、自由、所有、安全、圧制への抵抗という自然の権利を守ることにある、とする。第3条は、すべての主権の源は本来的に国民にある、とした。王の主権から国民の主権への転換である。

ほかの条文も、のちの憲法の型になった。法は一般意思の表明であり、すべての市民は自ら、あるいは代表を通じてその制定に加わる権利を持つ(第6条)。法に定められた場合でなければ、誰も訴えられ、逮捕され、拘禁されない(第7条)。有罪と宣告されるまでは、誰もが無実と推定される(第9条)。意見の表明は、たとえ宗教上のものであっても、妨げられない(第10条)。思想と意見の自由な伝達は、人の最も貴重な権利の一つである(第11条)。そして第16条は、権利の保障が確かでなく、権力の分立が定められていない社会には、憲法がない、と言い切った。最後の第17条は、所有権を神聖で不可侵の権利とした。
ルイ16世は宣言の承認を渋った。10月、パンの値上がりに怒ったパリの女性たちがヴェルサイユへ行進し、王の一家をパリへ連れ戻した。その混乱のさなかに、王はようやく宣言を受け入れた。宣言は1791年に成立した最初の憲法の冒頭に置かれた。
宣言の言葉は普遍的だったが、そこでいう「人」と「市民」に誰が入るのかは、すぐに争いになった。議会は1789年の秋、一定の税を納める男だけに選挙権を与え、それ以外の人々を「受動市民」とした。プロテスタントには1789年の暮れに、ユダヤ人には1791年に市民としての権利が認められたが、そこにも議論があった。植民地の奴隷は、宣言の外に置かれた。カリブ海のサン=ドマングで奴隷たちが蜂起し(ハイチ革命)、フランスが奴隷制の廃止を決めるのは1794年のことである。

そして、女性は含まれていなかった。フランス語で「人」を意味する語は「男」も意味する。1791年、劇作家オランプ・ド・グージュは、宣言と同じ17条の形をとって「女性および女性市民の権利の宣言」を書き、王妃マリー・アントワネットに捧げた。その第1条は、女性は自由なものとして生まれ、権利において男性と平等である、とする。第10条には、女性は処刑台に上る権利を持つのだから、演壇に上る権利も持たなければならない、という一節がある。同じころ、イギリスではメアリ・ウルストンクラフトが『女性の権利の擁護』を書いている。
ド・グージュは、革命が急進化するなかで、恐怖政治を進めたマクシミリアン・ロベスピエールらのジャコバン派を批判した。1793年11月、彼女は捕らえられ、ギロチンにかけられた。処刑台に上る権利が、皮肉な形で彼女に与えられた。人権宣言を掲げた共和国は、その名のもとに、裁判による処刑だけで1万数千人、獄死などを含めれば数万人が命を落とす時期を経験した。フランスの女性が国政の選挙権を得たのは、それから150年後の1944年である。

それでも、宣言は生き続けた。19世紀を通じてフランスの政体は王政、帝政、共和政と何度も変わったが、1789年の原則は自由主義者や共和主義者のよりどころであり続けた。いまのフランスの第五共和政の憲法は、前文でこの宣言を確認している。1971年以降、憲法院は宣言の条文を、法律の合憲性を審査する基準として用いるようになった。230年以上前の文章が、いまもフランスの裁判で効力を持っている。
1948年、国連総会が採択した世界人権宣言の第1条は、すべての人間は生まれながらにして自由であり、尊厳と権利とについて平等である、と書く。1789年の言葉の、まっすぐな子孫である。人権宣言の歴史は、宣言そのものの言葉と、その言葉から誰が締め出されていたのかを問い直してきた人々の歴史が、重なり合ってできている。