『暴力の人類史』で読む歴史

概要
人が人を殺す率は、狩猟採集の時代から今まで、長い目で見ればずっと下がってきた、という本。反論も多い。
この物語について
人間は、昔より残酷でなくなったのか。二つの世界大戦とホロコーストと原子爆弾を経験した20世紀のあとで、そう問うこと自体がおかしく聞こえるかもしれない。『暴力の人類史』(スティーブン・ピンカー、2011年、日本語版2015年)は、それでも、人口あたりで数え直せば、いまは人類史で最も暴力の少ない時代だ、と主張する。

著者はハーバード大学の心理学者で、言語と心の働きについての一般向けの本で知られていた。原題は、リンカーンが南北戦争の直前の就任演説の最後に語った、私たちの本性の「より良き天使」という言葉から取られている。本は上下巻に分かれる大部の本で、統計のグラフを何十枚も使って、殺人、戦争、拷問、処刑、奴隷制、虐殺、家庭内の暴力が、長い時間の中でどう変わってきたかをたどる。
本は減少を、いくつかの段階に分けて語る。最初は「平和化の過程」と呼ぶものである。国家のない社会では、争いは身内による復讐で決着がつけられ、それがさらに復讐を呼ぶ。本は狩猟採集や焼畑の社会の遺骨や民族誌の記録を集め、暴力で死ぬ人の割合が、国家のもとで暮らす社会よりはるかに高かったと見積もる。認知革命以後の遺骨がその証拠の中心で、農耕の始まりのあとに国家が生まれ、王が暴力を独占したことで、私的な復讐が抑えられた、という筋になる。

二つ目は「文明化の過程」である。社会学者ノルベルト・エリアスの言葉を借りて、本は中世から近世にかけてのヨーロッパで、殺人の率が桁で下がったことを示す。食卓の作法や、怒りを抑えることが上品とされるようになり、王の宮廷と商業の広がりが、人びとに先を見て自分を抑えることを求めた。暴力は、名誉を守る手段から、恥ずべきものへと変わっていった。本が頼ったのは、裁判や検死の記録から何百年ぶんの殺人の率を復元した犯罪史の研究で、イングランドやオランダやスカンディナヴィアのどこでも、中世末から20世紀までに率が数十分の一に下がっていく線が描かれている。
三つ目が、18世紀の「人道主義の革命」になる。わずか百年ほどのあいだに、それまで当たり前だった多くの残酷さが次々に否定された。1764年、ミラノの若い法学者チェーザレ・ベッカリーアは『犯罪と刑罰』を出し、拷問は真実を引き出さず、刑罰は犯した罪に釣り合い、確実であることが大事で、残酷である必要はないと論じた。ベッカリーア『犯罪と刑罰』である。この本はヨーロッパ中で読まれ、拷問の廃止を後押しした。ヴォルテールは、無実の罪で車裂きの刑に処されたプロテスタントの商人の名誉回復のために運動し、宗教の名による迫害を告発した。1757年、パリで国王を刃物で襲った男は、群衆の前で何時間もかけて体を引き裂かれて処刑されたが、そうした見せしめはこの世紀のうちに急速に姿を消していく。魔女裁判は消え、異端を火刑にすることも、見せしめの残虐な処刑も廃れていった。アメリカ独立宣言と人権宣言は、人が生まれながらに持つ権利という考えを、国家の土台に据えた。19世紀には、大西洋奴隷貿易と奴隷制そのものが、多くの国で廃止される。本は、印刷物と識字の広がりで、人びとが自分とは違う他人の立場を想像する機会が増えたことが、この変化を支えたと見る。

四つ目が「長い平和」である。これは冷戦史の研究者ジョン・ルイス・ギャディスの言葉で、1945年以降、大国どうしが直接戦争をしなくなったことを指す。第一次世界大戦と第二次世界大戦は、本の中でも人類史上の大きな破局として扱われる。本は第二次世界大戦を、死者の絶対数では史上最大だが、当時の世界の人口に対する割合では最大ではない、と書く。そのあと、核兵器を持つ大国どうしは、キューバ危機で核戦争の淵に立ちながら、直接には戦わなかった。本はこれを偶然ではなく、戦争を考えられないものにした価値観の変化の結果だと見る。その考えの源の一つとして、本はカント『永遠平和のために』を挙げる。民主的な国どうしは戦争をしない、貿易で結ばれた国は戦争をしない、国際的な機構が平和を支える、という三つの柱である。
五つ目と六つ目は、冷戦の後の「新しい平和」と、20世紀後半からの「権利の革命」である。冷戦が終わったあと、内戦や虐殺の死者も減っている、と本は言う。ルワンダ虐殺のような惨事は起きたが、全体の傾向は下がっている。世界人権宣言のあと、人種、女性、子ども、同性愛者、そして動物への暴力までが、次々に問題にされるようになった。アパルトヘイトの終結は、その流れの一つの到達点として出てくる。

本で特に議論を呼んだのが、歴史上の大きな殺戮を、当時の世界の人口に対する割合で並べ直した表である。そこでは、8世紀の唐の安史の乱が首位に来る。本は、戦乱の前と後の戸籍の人口の差から、死者を数千万人と見積もり、これを20世紀半ばの世界人口に換算すれば第二次世界大戦をはるかに上回る、とした。モンゴル帝国の征服、つまりチンギス・ハンとその子孫の戦争も、同じ表の上位に並ぶ。三十年戦争は、人口比で見ればドイツの地にとって二つの大戦に並ぶ破局だった。ただ、安史の乱の数字については、戸籍の人口が減ったのは人が死んだからだけでなく、国が人を把握できなくなったからで、実際の死者はずっと少ないはずだ、という批判が強い。古い時代の死者の数は、どれも幅の大きい推定である。
本は、暴力が減った理由を、人の本性が変わったことには求めない。人の心には、復讐や支配や加虐へ向かう「内なる悪魔」と、共感、自制、道徳感覚、理性という「より良き天使」の両方がある。変わったのは、どちらが表に出やすいかを決める環境のほうだ、と言う。暴力を独占する国家、相手を殺すより取引するほうが得になる商業、女性の地位の向上、読書と移動で広がった他人への想像力、そして理性による議論が、天使の側を後押ししてきた、という説明になる。
反論は、本の主張と同じくらい知られている。先史時代の暴力の推定は、少数の、それも暴力の痕が目立つ遺跡に頼りすぎている、と考古学者や人類学者は言う。人口比で割ると、ホロコーストや、ヒトラーとヨシフ・スターリンの時代の何千万という死者の絶対数の重さが消えてしまう、という批判もある。統計学者で思想家のナシーム・タレブは、大戦争はまれにしか起きないが、起きれば桁外れに大きいので、70年ほど起きていないことから傾向を言うことはできない、と論じた。核戦争の危険は、率では測れない。本が出たあと、シリアやウクライナで戦争の死者がふたたび増えたことも、反論の側の材料になっている。
この物語は、本が例に使ったできごとを、このデータベースの側から並べ直したものである。本文は写していない。本の「最も死者の多い出来事」の表に並ぶ、安史の乱やモンゴルの征服のようなできごとも入れてある。反論側の番組も、同じ物語に付けてある。暴力が減ったという主張が正しいかどうかにかかわらず、本が示した事実の一つは確かである。拷問や奴隷制や見せしめの処刑が当たり前ではなくなったのは、それに反対した人びとの議論と運動があったからだった。減ったとすれば、それは自然にではなく、人が減らしたのである。著者はのちに、同じ見方を健康や富や知識にまで広げた続編を書き、そこでも啓蒙の理性と科学がこの変化を支えたと論じている。
動画(2)
この物語が起きた場所
筋(22)
年代順に並べてあります。役どころが書いてあるものは、なぜこの物語に含まれるかを添えました。
- 認知革命できごと約7万年前〜3万年前第2章。国家のない社会の暴力の推定は、ここからの遺骨に頼る言葉が、目の前に無いものを語れるようになった。虚構を共有できれば、見ず知らずの数百人が協力できる。ハラリはここを人類史の起点に置く。ブロンボス洞窟
- 農耕の始まりできごと紀元前90世紀第2章。国家ができて私的な復讐が抑えられた、という筋の前提麦を蒔き、羊を囲った。栄養は偏り、身長は縮み、病気は増えた。それでも人口は桁違いに増える。肥沃な三日月地帯(位置は特定されていない)
- 安史の乱できごと755年本の「最も死者の多い出来事」の表で、人口比では首位唐の絶頂を折った大反乱。以後、中央の力は落ち、地方の節度使が実権を握る。長安
- チンギス・ハン人物AD1162年頃 – AD1227年草原の諸部族をまとめ、史上最大の陸上帝国の土台を築いた。生年も墓所も分かっていない。
- モンゴル帝国の拡大できごと1206年同じ表の上位史上最大の陸上帝国。ユーラシアが一つの交通圏になり、人も物も疫病も東西を往復する。カラコルム
- 大西洋奴隷貿易できごと1526年第4章。廃止されたこと自体が本の主題1200万人以上がアフリカから大西洋を越えて運ばれた。三つの大陸の人口と社会が、この一つの流れで作り替えられる。ベニンシティ

- 三十年戦争できごと1618年第3章と第5章。人口比では二つの大戦に並ぶ宗教戦争として始まり、国家どうしの戦争として終わった。ドイツでは地域によって人口が3分の1減ったとされる。プラハ

- ヴォルテール人物AD1694年11月21日 – AD1778年5月30日第4章二度バスティーユに入り、イギリスに亡命し、フリードリヒ大王と文通して喧嘩した。冤罪の再審を勝ち取り、寛容を説き、教会を嘲った。
- チェーザレ・ベッカリーア人物AD1738年3月15日 – AD1794年11月28日第4章の主役26歳で書いた薄い本が、拷問と死刑を正面から否定した最初の本になった。ヨーロッパの刑法が、この本のあとで書き換わっていく。
- ベッカリーア『犯罪と刑罰』できごとAD1764年第4章。拷問と死刑が否定されはじめる起点26歳のミラノの貴族が匿名で出した100ページの本。刑罰の目的は復讐ではなく、犯罪の抑止である。だから、罰は犯罪に比例し、確実で、迅速でなければならない。拷問は無実の弱い者を自白させ、罪ある強い者を放免するので、真実を得る手段として無効である。死刑は、抑止の効果が終身の労役に劣り、国家が殺人を犯すことで暴力を教える。各国語に訳され、エカチェリーナ2世、トスカーナ大公、そしてアメリカの起草者たちが読んだ。ミラノ

- アメリカ独立宣言できごとAD1776年7月4日第4章植民地が本国から離れ、人が生まれながらに権利を持つと宣言した。フィラデルフィア

- 人権宣言できごとAD1789年8月26日第4章人は生まれながらに自由で権利において平等である。国民議会が17条で書いた。女性は含まれておらず、2年後にグージュが「女性の権利宣言」で問い直す。パリ

- カント『永遠平和のために』できごとAD1795年第5章。民主的な国どうしは戦わない、という考えの源1795年、プロイセンがフランス革命の政府と講和を結んだ年、71歳のカントは、平和条約の形をとった小さな本を出した。将来の戦争の種をひそかに残した条約は平和条約とはいえない。常備軍はいずれ全廃する。戦争のために国が借金をしてはならない。ほかの国の体制に力で口を出してはならない。そのうえで、どの国も市民が戦争の是非を決める共和的な体制をとり、自由な国々が連合を作るべきだと説いた。戦争の苦しみを負う市民が決めるなら、軽々しく戦争はしないはずだ、という理屈である。国際連盟や国際連合を構想する人々が、この本を読み返した。ケーニヒスベルク
- ヨシフ・スターリン人物AD1878年12月18日 – AD1953年3月5日30年ソ連を握った。工業化を急いだ代償に数百万人が餓死し、粛清でさらに多くが殺された。
- ヒトラー人物AD1889年4月20日 – AD1945年4月30日合法的に権力を得て独裁を敷き、戦争とホロコーストを引き起こした。民主制が自ら独裁を選びうることを示した例として残る。
- 第一次世界大戦できごと1914年第5章サラエヴォの一発から、同盟の連鎖で世界が巻き込まれた。塹壕と機関銃と毒ガスで1000万人が死ぬ。サラエヴォ

- 第二次世界大戦できごと1939年第5章。絶対数では最大、人口比では最大ではない、と本は言う人類史で最大の戦争。軍民あわせて5000万人以上が死に、世界の枠組みが作り替えられた。ベルリン
- ホロコーストできごと1941年約600万人のユダヤ人が組織的に殺された。近代の官僚機構と技術が、絶滅のために使われた。アウシュヴィッツ

- 世界人権宣言できごとAD1948年12月10日第7章二つの大戦とホロコーストのあとで、国連総会が48か国の賛成、反対なしで採択した。拷問の禁止、奴隷の禁止、法の前の平等。守られない国は多いが、基準はここで書かれた。パリ

- キューバ危機できごとAD1962年第5章。核戦争が起きなかったことを「長い平和」と呼ぶ核戦争に最も近づいた13日間。以後、米ソは直通回線を引く。ワシントンD.C.

- ルワンダ虐殺できごと1994年第6章100日で80万人以上が殺された。植民地時代に固定された民族の区分が、その下地にあった。キガリ
- アパルトヘイトの終結できごとAD1994年第7章全人種が参加する選挙が行われ、マンデラが大統領になった。報復ではなく和解が選ばれる。ヨハネスブルグ

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